2022年05月22日 12:21
聖書 ルカによる福音書14章1-14節
11節「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と主イエスが言われる意味は、自分を低くする者が高くされるのは、神の慈しみによる高さにおいてというのです。13節では「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見ない人を招きなさい」と言われました。それは、誰でも招かれるとお返しをしたり、こちらから招いたりするものです。しかし、主イエスは、自分を食事に招いてくれた人にお返しできる人ではなく、出来ない人を招きなさいと言われました。この世における報いはお返しにすぎません。しかし、神の報いは世の終わりに完成する神の国に
2022年05月15日 07:27
聖書 ルカによる福音書13章31-35節
32~33節に「行って、あの狐に『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。」33節「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と、主イエスはファリサイ派の人々に言われたのです。主イエスは今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、人々を束縛するものから解き放ち自由にしようと働かれました。なぜ自分の広げる愛の翼の中に入ろうとしないのかと言われます。人々の心を縛る罪、不安を生む悪の力から解き放ちたい。病があり、憩
2022年05月05日 06:10
聖書 ルカによる福音書13章22-30節
福音書の著者であるルカは22節「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」と書き始めました。ルカは、この町や村が、まだエルサレムからずいぶん遠いところにあることをよく知っていました。しかし、イエスがエルサレムに向かって歩まれていることを思い起こさせます。エルサレムとは、主イエスが十字架の上で死なれた場所であり、復活された場所でもあります。今、私たちは確信をもって、主イエスがエルサレムに向かい十字架と復活に向かう歩みをしておられるということを知っています。23節「すると、『主よ、救われる人は少ないのでしょうか。』という人がい
2022年05月01日 06:54
聖書 ルカによる福音書13章10-21節
主イエスは、神の国はからし種に似たようなものでありパン種のようなものであると言われました。パレスチナの小さなユダヤの国の、しかも誰も知らない片田舎の小さな会堂の中でのことです。この小さな、隠れた主の御業がやがて芽生え、枝を伸ばし、空の鳥たちが宿るようになります。神の国は空想ではなく、聖書が語る神の国は現実の歴史の中で始まっていました。その会堂の礼拝の中に、18年間も腰が曲がったままであった女性がいました。12~13節「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した
2022年04月24日 17:35
聖書 ルカによる福音書13章1-9節
6節~7節「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』」と主イエスは、このような譬え話をされました。どういうわけか、ぶどう園にいちじくの木が植えられています。ぶどうを上手に栽培するために、いちじくの木を植えるということがあったのでしょうか。あるいは特に実らないいちじくの木を置くということは、これはエルサレムの都をなぜらえてのことでしょうか。ここにあるのは皆ぶどうの木で
2022年04月17日 20:46
2022.4.17 イースター礼拝
イースターとは復活祭のこと。
神様は、私たち人間が罪のために神様の御心がわからなくなり、互いに憎しみと悩みの中で生きている人間の姿に、神様がご自分の独り子であるイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとなってご自身の一人息子を十字架につけて、その贖いによって私たちの罪を許してくださいました。
十字架につけられたイエス・キリストは十字架の上で苦しまれ死なれたのです。
しかし、三日後によみがえられました。
死から復活されたのです。
それは聖書の中に詳しく語られています。
にもかかわらず、人間の歴史は戦争の歴史です。
どうか私たち人間
2022年04月17日 17:13
聖書 ルカによる福音書24章1-12節
婦人たちは、1節「週の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」のです。外はまだ暗かったと思われます。彼女たちは用意した香油を携え、墓に行ってイエスのお体に香油を塗ることを考えていました。ところが、彼女たちが見たものは、墓の入り口をふさいでいた石が転がされていたということです。3節「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」空虚な墓の中で、婦人たちが4節「そのため途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」この輝く衣を着た2人の者とは天使と思われますが、5節「恐れて地に顔を伏せた」この婦人たちは、この衣を着た二人から「な
2022年04月10日 06:58
聖書 マタイによる福音書27章45-52節
主イエスは、人々から捨てられたままで無言でした。しかも、45-46節に「さて、昼の12時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクダニ』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」と記されています。主イエスは神を父よと呼びました。主イエスは、十字架にかかって「何故ですか?」と叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。一度も罪を犯すことがなかったお方が、いつも神を信頼していた神の子が、いつも神の御心の通りに歩んで行かれたイエス
2022年04月03日 05:40
聖書 ローマの信徒への手紙12章9-13節
2022年度の教会聖句をローマの信徒への手紙12章12節より「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」に決定しました。これは皆さんの投票で決定したのですが、この困難な時代を迎える私どもの教会としては大変ふさわしい聖句であると思います。この聖書が書かれた頃、教会がどのような組織を持ち、どのような働きをしていたのか、よく分かりません。パウロはローマの信徒へ向けて、1章から11章までは福音の教理について述べて、12章からはキリスト者の実践について書きました。キリスト者として生きる者の生活について、具体的なことを丁寧に語っています。この中に愛
2022年03月27日 13:01
聖書 マルコによる福音書10章35-45節
受難節ですので、今朝からキリストの受難にあった個所から聖書を学んでいきたいと思います。今朝はマルコによる福音書10章35節以下です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに語りました。35節「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」それは何かと問われると、37節「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人は左に座らせてください」と願いました。主イエスは38節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることが出来るか」と、あなたは何を願っているのか、よ