2022年04月24日 17:35
聖書 ルカによる福音書13章1-9節
6節~7節「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』」と主イエスは、このような譬え話をされました。どういうわけか、ぶどう園にいちじくの木が植えられています。ぶどうを上手に栽培するために、いちじくの木を植えるということがあったのでしょうか。あるいは特に実らないいちじくの木を置くということは、これはエルサレムの都をなぜらえてのことでしょうか。ここにあるのは皆ぶどうの木で
2022年04月17日 20:46
2022.4.17 イースター礼拝
イースターとは復活祭のこと。
神様は、私たち人間が罪のために神様の御心がわからなくなり、互いに憎しみと悩みの中で生きている人間の姿に、神様がご自分の独り子であるイエス・キリストを遣わしてくださり、私たちの罪の身代わりとなってご自身の一人息子を十字架につけて、その贖いによって私たちの罪を許してくださいました。
十字架につけられたイエス・キリストは十字架の上で苦しまれ死なれたのです。
しかし、三日後によみがえられました。
死から復活されたのです。
それは聖書の中に詳しく語られています。
にもかかわらず、人間の歴史は戦争の歴史です。
どうか私たち人間
2022年04月17日 17:13
聖書 ルカによる福音書24章1-12節
婦人たちは、1節「週の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。」のです。外はまだ暗かったと思われます。彼女たちは用意した香油を携え、墓に行ってイエスのお体に香油を塗ることを考えていました。ところが、彼女たちが見たものは、墓の入り口をふさいでいた石が転がされていたということです。3節「中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。」空虚な墓の中で、婦人たちが4節「そのため途方にくれていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。」この輝く衣を着た2人の者とは天使と思われますが、5節「恐れて地に顔を伏せた」この婦人たちは、この衣を着た二人から「な
2022年04月10日 06:58
聖書 マタイによる福音書27章45-52節
主イエスは、人々から捨てられたままで無言でした。しかも、45-46節に「さて、昼の12時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクダニ』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」と記されています。主イエスは神を父よと呼びました。主イエスは、十字架にかかって「何故ですか?」と叫びました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。一度も罪を犯すことがなかったお方が、いつも神を信頼していた神の子が、いつも神の御心の通りに歩んで行かれたイエス
2022年04月03日 05:40
聖書 ローマの信徒への手紙12章9-13節
2022年度の教会聖句をローマの信徒への手紙12章12節より「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」に決定しました。これは皆さんの投票で決定したのですが、この困難な時代を迎える私どもの教会としては大変ふさわしい聖句であると思います。この聖書が書かれた頃、教会がどのような組織を持ち、どのような働きをしていたのか、よく分かりません。パウロはローマの信徒へ向けて、1章から11章までは福音の教理について述べて、12章からはキリスト者の実践について書きました。キリスト者として生きる者の生活について、具体的なことを丁寧に語っています。この中に愛
2022年03月27日 13:01
聖書 マルコによる福音書10章35-45節
受難節ですので、今朝からキリストの受難にあった個所から聖書を学んでいきたいと思います。今朝はマルコによる福音書10章35節以下です。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに語りました。35節「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」それは何かと問われると、37節「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人は左に座らせてください」と願いました。主イエスは38節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることが出来るか」と、あなたは何を願っているのか、よ
2022年03月20日 18:10
聖書 ルカによる福音書12章54-59節
56節「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」この「偽善者よ」とは誰のことかと言うと、律法学者、ファリサイ派の人々です。この人たちは自分は立派な信仰生活をしていると思っているし、人からもそう思われている。そういう人を主イエスは偽善者だと批判されました。わたしどもはどうでしょうか?私ども自身は少なくとも偽善者と言われるほど、ひどくないと思っています。しかし、本当は私どもは自分が偽善者であることを忘れています。人間は、もれなく偽善的な性質を持つことを主イエスは見抜いておられます。偽善と
2022年03月13日 15:41
聖書 ルカによる福音書12章49-53節
主イエスは49節「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と言われた。この火とは、人を滅ぼす火ではなく、人を生かす火です。この火は聖霊です。また、50節「わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんな苦しむことだろう」と言われた。主イエスは私どもの生活に火を投げ込まれました。
これはイエスの十字架の苦難を意味します。主イエスは...
2022年03月06日 16:17
聖書 ルカによる福音書12章41-48節
42節で「主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」また43節で「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」とあります。そのように主人の僕の務めを果たすために必要なことは「忠実で思慮深い」ことが求められています。そこで主イエスはペトロに「忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」と言われました。主人の帰りが遅いと,僕である者の心に不安が生まれます。主イエスを待ち続ける私たちの心に、主イエスに対する信頼の心を不安にさせるものが
2022年02月27日 06:25
聖書 ルカによる福音書12章35-40節
35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と記されています。主イエスからの、いつ、どんな命令にでも応じることが出来るように準備をする状態と考えてもよいと思います。そのように奮い立たせることですが、ここでは、むしろじっと待つこと、それも腰に帯を締め、ともし火をともして待つということです。主人がいつ帰ってくるか分からないからです。場合によっては、僕は一晩中明かりを絶やさず、目を覚ましていなければならないかもしれません。37節に「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを