2021年09月01日 05:35
聖書 ルカによる福音書8章19-25節
主イエスを信じた私たちの人生とは、丁度船に乗って海に出て行くようなものだと言えます。22節「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り」とあるように、私たちの人生には多くの仲間があり旅の道連れとなる人がいます。それだけでなく、私たちには復活のイエスもまた、私たち一人一人の人生の旅に共にいてくださるのです。私たちの人生の旅は平和と希望に満ちていても、静かな日の毎日ではありません。23節「渡っていくうちに、イエスは眠ってしまわれた。」そこへ「突風が湖に吹き降ろしてきて、彼らは水をかぶり、危うくなった。」この突風とはガリラヤ湖ではよく起こることのようです。私たちの人生
2021年08月29日 12:45
聖書 ルカによる福音書8章4-18節
み言葉を蒔くというということはどういうことかを主イエスは教えておられます。主イエスはなぜ一生懸命になって伝道なさったのか。それは神の国の福音を説き、ご自分の家族を形成するためです。8節に「『また、ほかの種は良い土地に落ち。生え出で、百倍の実を結んだ。』イエスはこのように話して、『聞く耳のあるものは聞きなさい』と大声で言われた。」とあります。主イエスは大声で、それを聞いてほしい、あなた方は耳があるのだから、しっかり聞いて実を結ぶようにと、聞くことを求めておられます。「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」とは、神の祝福のゆえに百倍の実
2021年08月18日 06:08
聖書 ルカによる福音書8章1-3節 2~3節「すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」のでした。マグダラのマリア、この人の名前は良く知られていますが、このように主イエスの地上の生活を一緒にして、食事の世話をする、衣服の選択をするなど、そういう世話を引き受けてくれる女性たちがいたのでした。この記事はルカのみが書いています。12人の弟子は男性ですが、しかしこの12人の弟子は最後までイエスと共にあったとは書くことが出来ませんでした
2021年08月15日 16:31
聖書 ルカによる福音書7章36-50節
37-38節には一人の女性が、香油の入った石膏の壺を持って来て、食卓についておられる主イエス足元に近寄り、泣きながら自分の髪の毛でイエスの足を拭い、イエスの足に接吻して香油を塗ったと記されています。その席にいたファリサイ派のシモンという人が、この女性の涙に同情することもなく、この涙を受け入れる主イエスの行為に不平を持ったのです。39節に「イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人かわかるはずだ。罪深い女なのに』と思った」のです。預言者なら、どの人が善い人で、どの人が悪い人かわかるはずだ。
2021年08月08日 06:06
聖書 ルカによる福音書7章24-35節
洗礼者ヨハネが人々にどのように迎えられたかは、29節で民衆は「神の正しさを認めた」とあり、30節ではファリサイ派の人々や律法の専門家たちは「神の御心を拒んだ」と記されています。神の御心とは、私たちのための神の御心です。神が私たちのことを大切に思ってくださる神の御心を拒否しないことです。33節には洗礼者ヨハネがパンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしないと「あなた方は、あれは悪霊に取りつかれている」と言い、主イエスについてはその逆に34節で「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言うのです。」と記されています
2021年08月01日 15:43
聖書 ルカによる福音書7章18-23節
洗礼者ヨハネの母はエリザベト、父は祭司ザカリアです。幼い時から両親から、救い主が来られるという、その使命を果たすために生まれて来たのだということを聞かされていたのではないかと思います。その来るべき方のための道備えをすることがヨハネの使命でした。それだけにヨハネは主イエスご自身に尋ねないわけにはいかなかったのです。「来るべき方はあなたですか」と、この問いはヨハネは自分が歩んできた道がよいのだという保証をいただきたかったのです。ヨハネは今獄中にいて、その厳しい試練の中でどうしても問いたくなったのだと思います。主イエスが救い主であり、イエスが本当に神の子であ
2021年07月20日 06:00
聖書 ルカによる福音書7章11-17節
11節に主イエスが弟子達や大勢の群衆と共にナインという町に行かれたと記されています。群衆は、百人隊長の部下を癒された、その奇跡をもっと見たいと思っていたのかもしれません。イエスが町の門に近づくと、ちょうど一人の若者が死んでしまって棺が担ぎ出されているところでした。その若者に父親はおらず母親が一人で育てたのです。とても悲しいことです。12節に、町の人々が大勢そばに付き添っていたと書いてありますから、多くの人がその死に深い同情を寄せたに違いありません。誰もがこれはどうしようもない、ただ母親の悲しみに対して同情するほかないと思っていました。しかし、13節「主
2021年07月19日 05:38
聖書 ルカによる福音書7章1-10節
9節「イエスはこれを聞いて感心し、従っていた群衆の方を振り向いて言われた。『言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。』」と記されています。このように主イエスは異邦人である百人隊長の信仰に驚かれました。この百人隊長についてはユダヤの長老たちも、5節「わたしたちユダヤ人を愛し、自ら会堂を建ててくれたのです」と言っています。彼はまだ未信者で異邦人です。しかしここでは、そういう区別を越えて神を信じるとはどういうことかを、主イエスによって見出されました。 この百人隊長の一人の部下が思い病にかかりました。もう主イエスのところに連れ
2021年07月11日 04:47
聖書 ルカによる福音書6章43ー49節 キリストは、福音の真理を語る時、目の前にある自然や人間を題材にして、特にたとえ話で、難しいことを分かりやすく説明されるために比喩を用いて語られました。46-47節には「わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆」と言われています。信仰することが既に行いを含んでいます。神を信じるということが一つの大きな行いです。信じるためには、生活全体をかけた行為であり、決断があるからです。48~49節では雨や、洪水について語られました。私たちの人生には突然に危機がやってきます。その危機に耐える家を、私たちはしっかりした土台の上に建てることです。その土台とは「わたしの言葉を聞き
2021年07月04日 06:49
聖書 ルカによる福音書6章37-42節
主イエスは、弟子たちに37-38節「人を裁くな。そうすれば、あなた方も裁かれることがない。赦しなさい、そうすれば、あなた方も赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」と言われました。これらの言葉は、私たちは何度も聞いています。反対する人はいません。しかし、実際にそのことを自分がするとなると出来ない者です。私たちの口から出る言葉は、気が付くといつも人を裁いています。あの人はこう言ったから、あの人はこういう人だと決めつけて裁いてしまう。自分に何か悪事を働いた人はいつまでも赦せない者です。私たちは、いつの間にか人に与えるよりも人から何かを与