2020年02月11日 13:55
聖書 マタイによる福音書22章23-33節
サドカイ派の人々は「復活はないと言っている」とマタイには書いています。サドカイ派とは非常に保守的なユダヤ教のグループで、貴族階級のインテリであったようです。彼らは旧約聖書を重んじました。24節に「先生、モーセは言っています」と「モーセ律法」をもとにして、7度も結婚を強いられた妻がよみがえったときに、どの男性が夫と言えるのかという質問をイエスにしました。主イエスは29節「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」続いて30節「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」と言われました。天使のようになるのだとは、神の
2020年02月04日 17:06
聖書 マタイによる福音書22章15-22節
ローマ皇帝に対する税金を納めてよいかどうかという問題です。このファリサイ派の人々の問いと、それに対しての主イエスの答えは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉でよく知られたところです。政治は政治、信仰は信仰と、それぞれ別のものとして切り離して読むことも出来ます。主イエスの答えは、ファリサイ派の人の問いに対する直接の答えではありません。主イエスは神の国を建設するために地上に来られた方です。その主イエスにとって、当時の皇帝はどのような者であったか、それを相手にするにはあまり意味がありません。主イエスが関心を注がれているのは、「
2020年01月27日 16:23
聖書 マタイによる福音書22章1-14節
準備された大宴会に、3節「王は家来たちを送り婚宴に招いておいた人々を呼びに行かせた」とあります。しかし、婚宴の招待を受けた人は、みんな断ってしまいました。自分の都合を優先して断ったのです。5節「また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。」と、なんと呼びに行かせた家来たちを乱暴し殺してしまったのです。この人々は神様の宴会に招待された人々でした。7節「そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その街を焼き払った。」とあり、8-9節では、招いておいた人々はふさわしくなかったから、町の大通りに出て、見かけた人はだれでも婚宴に
2020年01月21日 08:28
聖書 マタイによる福音書21章33-46節
「ある家に主人がいた」という「ある家の主人」とは神様を意味しています。その主人がぶどう園を作っています。「ぶどう園」は世界全体と理解ができます。ぶどう園の経営者は、準備万端に整えて、それを農夫たちに貸して旅に出かけました。収穫の時が来ると主人は収穫物を受け取るために僕を農夫のところへ送りました。しかし、農夫たちは、その僕を皆、殺してしまったというのです。この主人は自分が送った僕が帰って来ないので、何かおかしいことが起こっていることは分かっていました。しかし辛抱強い主人で、最後に自分の子どもを遣わしました。すると農夫たちは、あれは跡取りだから、あの子
2020年01月13日 17:44
聖書 コヘレトの言葉3章1-8節
今朝は昨年1月14日に主のみもとに召された齊藤牧師を記念をして礼拝を捧げたいと思います。 私たちが毎日生きていく中で、自分の人生を考えていくときに人生の目的は何か、生きていく意味は何か、と考える場合があります。人生の目的は歴史の中に意味があるのです。大変な難しい時代にあって私たちは様々な経験をしながら生きています。その私たちの人生の中に神はいつも干渉される。聖書は「何事にも時がある」と神の摂理によって定められた時があることが語られています。私たちが生きている時間も、すべて神の御手にあるというのです。時間の中で働く神がある。これが神がこの人間の世界の中に入ると
2020年01月12日 05:57
聖書 マタイによる福音書21章28-32節
この譬え話しは、ある人に二人の息子がいた。父親は兄のところに行って「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と命じた。すると、兄は「いやです」と答えたが、考え直して出かけた。父親は弟のところに行って同じように命じた。すると弟は「お父さん、承知しました」と答えたが、実際にはぶどう園には行かなかった。さて、この兄弟の一体どちらがお父さんの望み通りのことをしたのか、とイエスはお尋ねになったのです。この兄と弟の違いはどこにあるでしょうか。兄が「いやです」と答えながら、後に出かけて行ったのは父と共に働くためでした。弟は「お父さん、承知しました」と答えたが出かけなかっ
2020年01月08日 20:12
聖書 マタイによる福音書21章23-27節
「わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか。あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったのか。天からのものか、それとも人からのものか」主イエスの問いは、ヨハネのバプテスマは神からのものと認めるか、ということでした。この問いを受けた時、権威ある指導者たちは「彼らは論じ合った」とあるように自分たちの中だけで議論をしました。もし人からだと言えば群衆が怖い、そして彼らの結論はイエスを殺すことでした。ですから主イエスの問いに誠実に答えることが出来ないのです。バプテスマを受けることは、神の権威のもとに帰り、自分
2020年01月06日 16:10
マタイによる福音書21章28-32節
このたとえ話は、ある人に二人の息子がいた。父親は兄のところ行って「今日、ぶどう園へ行って働きなさい」と命じた。すると、その兄の方は「いやです」と答えましたが、考え直して出かけました。弟の方は、「お父さん、承知しました」と答えたが、実際にはぶどう園には行かなかったのです。一体どちらがお父さんの望み通りのことをしたのか、とお尋ねになりました。兄と弟の違いはどこにあるかというと、兄が「いやです」と答えながら、後に出かけて行ったのは、父と共に働くためでした。弟は「お父さん、承知しましたが答えたが、出かけなかった」のは、心を入れ替えなかったのです。父のもとへ帰ること
2019年12月31日 08:06
聖書 ヨハネの手紙第一2章9-11節
明けましておめでとうございます。昨年を振り返りますと、この水こと教会が創立25周年を迎えたことは、神に深い導きがあり、祝福があり、神が水元教会を顧みてくださったことだと感謝をしています。また新しい年を迎え、皆さんと共に神様に従順な者でありたいと願って祈るものです。人間は闇の中に置かれると、「どこへ行くのかわからない」存在となって行きます。光の中を生きるということは愛に生きることです。もう一つのことは聖霊が注がれた人です。聖霊が注がれた人は、愛に満ち喜びの中で生きていける人です。自分の心がいつも平和であり、この地上の生活においても平和のため希望を持ち続けて
2019年12月27日 06:01
聖書 マタイによる福音書21章18-22節
21章は1節から主イエスの一週間を記しています。18節以下はその二日目の朝のことです。18節「朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた」とありますように、朝の早いときでした。エルサレムに帰る途中、イエスは空腹を覚えられました。その道に一本のいちじくの木が立っていました。しかし、そのいちじくの木は緑の葉が茂っているだけで、実は実っていませんでした。主イエスの飢えを満たす実を実らせていませんでした。そこで、イエスはその木にむかって「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった、と記されていま