記事のアーカイブ

2018年03月21日 21:05

2018.3.25 宣教「強いられた恵み」

聖書 マタイによる福音書27章32-44節  ここにはキリストの十字架の道のことが書かれています。兵士たちは出て行くと、シモンというキレネ人に出会った。キレネ人とはアフリカの北海岸にあるところですが、そこからやって来たシモンという男です。おそらくこの男はエルサレムに巡礼にやって来たのではないかと思われます。過越しの日に、多くの人々の中からキリストが、十字架を負っている姿を見て、彼は驚いて、そのキリストの十字架の後について行ったのでしょう。ローマ兵はこの田舎者でたくましい男に十字架を背負わせました。彼は、やがてカルバリの丘で、キリストが十字架につけられて、そこで語られたことばを聞いたかもしれない
2018年03月12日 13:53

2018.3.18 宣教「主よ、御許に近づかん」

聖書 マタイによる福音書8章18-22節  今朝のテキストは、「弟子とは何か」または、「主イエスに従う」ということが主題です。主イエスが行かれるところ、その主イエスについて行くということを私たちは忘れてはなりません、イエスの背中を見ながら、生きていくことが出来るのかどうか、現実にそうしているかどうかということが、私どもにとって大事な問いです。19節「ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った」とあります。22節に「イエスは言われた。「わたしに従いなさい」と言われました。」イエスが断固として従いなさいと求めておられます。わたしたちはこれまでいろ
2018年03月05日 19:06

2018.3.11 宣教「主よ、心を癒してください」

聖書 マタイによる福音書8章14-17節  主イエスの生涯で最も華やかな時代は、ガリラヤの時代と言われています。主イエスの生涯はごく短いもので、正確な年数はわかりませんが、長くて3年と言われています。今日の聖書の個所は主イエスのある日の生活を、第5章1節から書き始めて、その1日の終わりまでを記しています。マタイは17節で、主イエスの賛美のことばを、「預言者イザヤの言葉」と記されているように、イザヤ書53章4節を引用しています。「彼はわたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」。このイザヤ書のことばがここに実現しているのです。このイザヤ書はイエス以前、約800年前に書かれたものです。この個所は多
2018年02月26日 15:33

2018.3.4 宣教「救いの権威者」

聖書 マタイによる福音書8章1-13節  イスラエルの民は「神に選ばれた民」ということですが、主イエスは、その信仰の民の中にあって信仰を探したけれども、今まで見つからなかったと言っています。ところが思いがけないところにその信仰を、イスラエルの民の外に見出されたのです。これが今朝の主題です。  ここに登場して来るのは、一人は重い皮膚病の人であり、もう一人は百人隊長です。2節「すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、『主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります『と言った」と記されています。主イエスはその捨てられた人に近寄られるのです。5-6節「さて、イエス
2018年02月19日 19:22

2018.2.25 宣教「ダビデとヨナタン」

聖書 サムエル記上18章1-11節  今朝は「ダビデとヨナタンの友情」について学んでいきたいと思います。ヨナタンはサウル王の長男です。父親と息子の関係が非常に緊密であったイスラエルの世界で、ヨナタンはあえて、親子関係よりも契約をダビデと結びました。ダビデとヨナタンは神との契約を重んじました。3節「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結んだ」そして、4節「着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」とあるように、ヨナタンは自分にとって大切なものをダビデに与えました。しかし、ダビデは何もヨナタンに与える者はありませんでした。当時のダビデは与えたくても何ももっ
2018年02月13日 09:49

2018.2.18 宣教「千歳の岩」

聖書 マタイによる福音書7章24-29節  24節「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」ここで大切なことは、聞くことと、行うこととを分けることはできないということです。単に主イエスのお説教に過ぎないとして聞き過ごしてしまったということであるならば、それは、聞いてもいないし、信じてもいないということです。イエスの言葉を、岩だとは思っていないということです。  次に「賢い」という意味は、思いが深い、あるいは、見るべきものをしっかり見ている、正しく考えることが出来るという人の意味があります。信仰するということが、実は行いを含んでいます。神を信じる
2018年02月10日 06:39

2018.2.11 宣教「信仰の実」

聖書  マタイによる福音書7章15-23節  最初に「偽預言者に警戒しなさい」と記されています。偽預言者とは誰のことで、何を言っているのでしょうか?主イエスは偽預言者がどういう者であるかを明確にしていません。預言者とは神の言葉を伝える者です。旧約聖書の場合ですと「神はこのようにお語りになります」という人です。言い換えれば、自分の意見を述べるのではなくて、神の言葉を述べる者です。新約時代になると預言者という言葉は出てきませんが、伝道者という人でもあります。旧約の場合と違うのは、イエス・キリストの十字架と復活があり、その救いが完成されていることです。従って、今は、主なる神が仰せになることは、キリス
2018年01月29日 12:54

2018.2.4. 宣教「 狭き門から入れ」

聖書 マタイによる福音書7章13-14節 「命にいたる門」ということは、本当の自分を見出す門という意味です。多くの人は本当の自分を見出すために「命にいたる門」から入ろうとしているでしょうか? 広々とした門や道は誰にとってもその方が楽です。自分の好きなように自分の思い通りに自分の都合によってすることが、聖書では滅びの道を進んでいくというのです。自分の都合でとは自分が中心です。ですから、気が向けば歩くし気が向かないと休むという歩み方です。しかし、もう一つの道は、神に導かれるのですが、それは神に規制される生活でもあります。その神の規制とは、神の掟というのはでなく神の望みになることで、神が私たちの救い
2018年01月25日 17:12

2018.1.28 宣教「サウルの堕落」

聖書 サムエル記上28章4-19節  サムエル記の初めの頃、イスラエルには王はいませんでした。人々は近隣の国には王がいるので、自分たちの国にも王を立てたいということを言い出しました。主はサムエルにサウルを聖別して油を注ぐように命じました。サウルは非常に美男子で、謙虚な若者でした。しかし王になると、サウルは神からの命令にずれていきました。神のもっとも嫌うことは高慢です。サウルはいつの間にか自分の分を超えて、神に背いて、ついに神から見捨てられてしまいます。サウルは神の命令に90%から95%だけ従って、それで十分だと思ったのです。これは私たちも学ばなければならない教訓です。これくらい従えば、もういい
2018年01月22日 16:11

2018.1.21 宣教「今日、なお私はリンゴの木を植える」

聖書  テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章1-11節 本日は講壇交換のため北千住教会の平沢功牧師にお話をしていただきました。 平沢先生は昨年11月に突然の病のため入院・手術をされました。 その後、順調に回復され退院、12月末の診察では通常の生活まで回復をされました。 今朝のメッセージは大変力強く、私たちの終末に向けての生き方を伺うことが出来ました。 平沢先生、どうも、ありがとうございました。   ぜひ、「礼拝案内」をクリック→下方へ→「ライブ中継アドレス」からメッセージをお聴きください。

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