記事のアーカイブ

2017年08月24日 09:23

2017.8.27 宣教「外なる人と内なる人」

聖書 コリントの信徒への手紙二4章16-18節  16節には「外なる人」と「内なる人」が対照的に書かれています。この「外なる人」つまり肉体と古い人間性は衰えていくが、「内なる人」は新しく生まれ変わっていきます。つまり内にキリストを宿す人は、日ごとに新しくされ、霊的に成長していくというのです。  17節「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」とあるように、「一時の軽い艱難」と「重みのある永遠の栄光」とが対照的に記されています。パウロの経験した艱難は軽いものではありませんでした。それでも軽い艱難と言ったのは、パウロはやがてあずかる、比べものに
2017年08月15日 17:59

2017.8.20 宣教「神の国の成就」

聖書 マタイによる福音書6章9-10節  今朝のテキストは「御国が来ますように」という祈りです。主イエスは繰り返し神の国について語られました。マルコ福音書1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」は、主イエスが宣べ伝えらえた福音の中心をなすものです。初代教会の人たちは、ユダヤ人から迫害され、ローマ帝国からも殉教させられ、最後まで「御国が来る」ことを真剣に祈りました。  私たちの現実の生活の中では、実際には「御国」はあまり問題になっていないのではないでしょうか。初代教会の時代は主イエスが間もなく再びおいでになると信じていました。それで、この祈りの言葉を、いつも繰り返し
2017年08月13日 14:44

2017.8.13  宣教「主の祈り」

聖書 マタイによる福音書6章9-10節  主の祈りは6つの祈りと一つの頌栄から出来ています。初めの三つは、神のための祈りです。御名「あなたの名前」、御国「あなたの国」、御心「あなたの心」という神への祈りtなっています。あとの3つは「私たちに必要な糧」、「私たちの負い目」、「私たちの誘惑から」という「私たち」のことになっています。  まずわたしたちは、神への信仰をはっきりすることが、祈りにおいて大切なことです。神に祈るときに、私たちが自分のために祈ることになっては、神を利用したことになります。主の祈りは、このように弟子たちの願いに応えて、主イエスが教えてくださった祈りです。「天におられるわたした
2017年08月02日 17:26

2017.8.6 宣教「平和の祈り」

聖書 マタイによる福音書6章5-8節  今朝のテキストの重要なところは、6節「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と、祈りも隠してするようにと言っています。祈りをするのは「あなた」一人のことです。  信仰生活について大切なことは、神の目にのみ明らかな生活をしなさい、ということです。信仰生活には多くの誘惑があります。その誘惑は外からの誘惑もありますが、むしろ自分の中から起こる誘惑があります。それは自分を高く評価されたい、自分をよく見せようとする誘惑です。それ
2017年07月25日 18:31

2017.7.30 宣教「神への畏敬」

聖書  出エジプト記1章15-21節  今朝は、モーセの出生の問題について学びたいと思います。  1章5節に「孫の数は全部で70人であった。ヨセフは既にエジプトにいた」とあります。出エジプト記は、ヤコブとイスラエルの12部族からの話がはじまります。そして、急にモーセの時代に入っていきます。なぜこの間の430年間がブランクになったのかは、いまだに分かりません。その430年後、エジプトにおけるイスラエルの人々は強大な民族として増え広がっていったことが聖書に記されています。  そこで、エジプトのファラオの圧力が強くなっていきました。12-14節「しかし、虐待されればされるほど、彼らは増え広がった・・
2017年07月21日 06:48

2017.7.23 宣教「隠れた愛」

聖書 マタイによる福音書6章1-4節  1節で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と、一貫した主張をもっている言葉で、具体的な生活の姿が記されています。自分の善い行いや、自分の正しいことを、人の前で見せるな、ということです。そういうことは自分と神とだけのことにしておくようにということです。  また、2節に「偽善者」という言葉がありますが、人が見ているところだけで善行をすることは偽善者です。それは、人のために善い行いをすると言いながら、実際は自分のためにしているにすぎないからです。3節の「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」ということは、「他人に見られるな」と
2017年07月15日 18:40

2017.7.16  宣教「愛の祈り」

聖書 マタイによる福音書5章43-48節  イエスは敵を愛するたけでなく、自分を迫害する敵のために祈れと言われました。愛することも決してやさしいことでありませんが、敵のために祈るということは、簡単なことではありません。私たちは「敵を愛する」ことは、実際には、そのようには生きられないと結論づけてしまいます。そうすると、「愛の生活」には何の変化も起こさず、私たちは、この聖句を読み過ごしてしまいます。  なぜ「敵を愛する」ことをしなければならないのでしょうか?45節には「天にいますあなたがたの父の子となるためである」と書いています。敵を愛するということは、「天にいます父なる神の子となるためである」と
2017年07月14日 10:28

2017.7.9 宣教「今日を大切に生きよう」

特別伝道礼拝 聖書  マタイによる福音書6章25-34節 今朝は、安増幸子牧師による特別伝道礼拝です。 安増牧師は長い間の教員生活の経験後、神学校で学ばれ牧師となられました。 冨貴島教会(現...
2017年07月11日 08:02

愛と祈りの心

マタイによる福音書5章43-48節 主イエスは敵を愛するだけでなく、自分を迫害する敵のために祈れと言われました。敵を愛することはやさしいことではありませんが、祈るということも簡単なことではありません。「敵を愛せよ」という教えは実際にそうは生きられないと結論づけてしまいます。そうすると無理に、主イエスの教えを守る必要もないということであるならば、私たちの「愛の生活」には何の変革も起こしません。主イエスはなぜ「敵を愛し、自分の迫害する者のために祈りなさい」と言われるのでしょうか?愛することのできる人を愛していくならば誰でもできます。それは結局愛し得る者だけを愛していくところでは、愛や平和はありませ
2017年06月29日 04:53

2017.7.2 宣教「善をもって、悪に勝つ」

聖書 マタイによる福音書5章38-42節  「目には目を、歯には歯を」この言葉は誰でも知っています。目に傷を受けたら、相手の目を傷つけ、歯を折られたら、歯を折れという、復讐を徹底的にするということを記しています。この言葉を一般的に受け取っていた者たちに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない」ということを言われ、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」と言われたのです。これまでの考えではとても考えられないことです。  しかし実際の生活の中で、そんなことが出来るのかということです。これは、理想論なのでしょうか、それとも、無抵抗が本当に力となるのでしょうか?  悪に対し

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