2017年08月02日 17:26
聖書 マタイによる福音書6章5-8節
今朝のテキストの重要なところは、6節「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」と、祈りも隠してするようにと言っています。祈りをするのは「あなた」一人のことです。
信仰生活について大切なことは、神の目にのみ明らかな生活をしなさい、ということです。信仰生活には多くの誘惑があります。その誘惑は外からの誘惑もありますが、むしろ自分の中から起こる誘惑があります。それは自分を高く評価されたい、自分をよく見せようとする誘惑です。それ
2017年07月25日 18:31
聖書 出エジプト記1章15-21節
今朝は、モーセの出生の問題について学びたいと思います。
1章5節に「孫の数は全部で70人であった。ヨセフは既にエジプトにいた」とあります。出エジプト記は、ヤコブとイスラエルの12部族からの話がはじまります。そして、急にモーセの時代に入っていきます。なぜこの間の430年間がブランクになったのかは、いまだに分かりません。その430年後、エジプトにおけるイスラエルの人々は強大な民族として増え広がっていったことが聖書に記されています。
そこで、エジプトのファラオの圧力が強くなっていきました。12-14節「しかし、虐待されればされるほど、彼らは増え広がった・・
2017年07月21日 06:48
聖書 マタイによる福音書6章1-4節
1節で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」と、一貫した主張をもっている言葉で、具体的な生活の姿が記されています。自分の善い行いや、自分の正しいことを、人の前で見せるな、ということです。そういうことは自分と神とだけのことにしておくようにということです。
また、2節に「偽善者」という言葉がありますが、人が見ているところだけで善行をすることは偽善者です。それは、人のために善い行いをすると言いながら、実際は自分のためにしているにすぎないからです。3節の「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」ということは、「他人に見られるな」と
2017年07月15日 18:40
聖書 マタイによる福音書5章43-48節
イエスは敵を愛するたけでなく、自分を迫害する敵のために祈れと言われました。愛することも決してやさしいことでありませんが、敵のために祈るということは、簡単なことではありません。私たちは「敵を愛する」ことは、実際には、そのようには生きられないと結論づけてしまいます。そうすると、「愛の生活」には何の変化も起こさず、私たちは、この聖句を読み過ごしてしまいます。
なぜ「敵を愛する」ことをしなければならないのでしょうか?45節には「天にいますあなたがたの父の子となるためである」と書いています。敵を愛するということは、「天にいます父なる神の子となるためである」と
2017年07月14日 10:28
特別伝道礼拝
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
今朝は、安増幸子牧師による特別伝道礼拝です。
安増牧師は長い間の教員生活の経験後、神学校で学ばれ牧師となられました。
冨貴島教会(現...
2017年07月11日 08:02
マタイによる福音書5章43-48節
主イエスは敵を愛するだけでなく、自分を迫害する敵のために祈れと言われました。敵を愛することはやさしいことではありませんが、祈るということも簡単なことではありません。「敵を愛せよ」という教えは実際にそうは生きられないと結論づけてしまいます。そうすると無理に、主イエスの教えを守る必要もないということであるならば、私たちの「愛の生活」には何の変革も起こしません。主イエスはなぜ「敵を愛し、自分の迫害する者のために祈りなさい」と言われるのでしょうか?愛することのできる人を愛していくならば誰でもできます。それは結局愛し得る者だけを愛していくところでは、愛や平和はありませ
2017年06月29日 04:53
聖書 マタイによる福音書5章38-42節
「目には目を、歯には歯を」この言葉は誰でも知っています。目に傷を受けたら、相手の目を傷つけ、歯を折られたら、歯を折れという、復讐を徹底的にするということを記しています。この言葉を一般的に受け取っていた者たちに対して、主イエスは「悪人に手向かってはならない」ということを言われ、さらに「だれかがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさい」と言われたのです。これまでの考えではとても考えられないことです。
しかし実際の生活の中で、そんなことが出来るのかということです。これは、理想論なのでしょうか、それとも、無抵抗が本当に力となるのでしょうか?
悪に対し
2017年06月22日 17:27
聖書 創世記37章1-36節
3節に「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」。また、4節では「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」と記されています。 「穏やかに話すこと」とは、ヘブル語ではシャロームという言葉が使われています。つまりシャロームという「お互いに平和があるように」というユダヤ人の挨拶が出来ななかったということです。挨拶の言葉ができないということは、そこには平和が崩壊しているということです。ヨセフは自分が見た夢を自慢して兄たちに話しました。それは父も
2017年06月17日 07:53
聖書 マタイによる福音書5章33-37節
私たちは毎週使徒信条告白をいたします。私たちはこの誓約に基づいて教会を形成しています。その信仰告白がどこまで誠実であるかと問われますと、いささか軽く考えるところがあります。信仰の問題はそれは神の前で口にした言葉を守っていますかということを問われています。
わたしたちの語り合う言葉が建前であったり、不真実な信用できないものであったら、私たちは人間関係においても社会においても成り立ちません。
私たちは自分が弱い人間で、不真実な人間だと思うことがあっても、主イエスは、私たちに対して望みを失われません。48節に語られれているように「あなたがたの天の父が完
2017年06月08日 07:25
聖書 マタイによる福音書6章25-34節
6月第2日曜日は、「子どもの日・花の日」です。水元教会では、子どもたちが健やかに成長すると共に、神様に従い人に仕えて生きる者となるようにと一緒に礼拝を守っています。ります。
聖書には「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と書かれています。「思い悩む」ということは、今日のことを思い悩むこともありますが、やはり明日がどうなるか、ということが誰にとっても大事なことです。もし、明日のことがいつでも確かなら、だれも悩むことはしません。ここで「苦労」という言葉は、悪いこと、つらいことという