2016年03月28日 07:03
復活節第1主日礼拝
マルコによる福音書16章1-8節
<中心聖句>
16章7節
「かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」
マルコによる福音書16章は8節で終わっています。9節から後もありますが、それはそういう写本もあるということであって、正確にはマルコは16章の8節で終わっています。一番最後の言葉が「恐ろしかったからである」という言葉で終わっているのです。 その前の記事には、墓にやって来た婦人たちは、皆、墓を出て逃げ去った、震え上がり、正気を失っていた、誰にも言わなかった、本当にびっくりしてしまったというのです。
とおり
クリスマスほどではあり
2016年03月20日 17:27
聖書 ヨハネによる福音書19章38-42節
<中心聖句>
19章41節
「イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。」
この19章38節以下は、主イエスの埋葬の出来事を語っています。
...
2016年03月15日 08:27
イースター(復活日)まで
教会では2月10日(水)より、レント(イースター前の日曜日を除く40日間9に入り、
イエス・キリストの受難を思う時を過ごしています。
次週3月21日(月)~26日(土)までは受難週連夜祈祷会をいたします。
時間は午後7時から8時です。
3月21日(月) エルサレムに迎えられる ヨハネ12:12-19 (司会 粟津留雄兄)
22日(火) 一粒の麦 ヨハネ12:20-26 ...
2016年03月14日 06:26
聖書 ヨハネによる福音書12章20-26節
<中心聖句>
今朝の中心聖句は、みなさんが暗礁聖句とされている方も多いと思いますが、聖書の中でも大変有名なことばです。
...
2016年03月07日 20:35
聖書 マタイによる福音書6章9-13節
<中心聖句>
6章9節
「天におられるわたしたちの父よ。」
神が天におられるという思想は、旧約時代の人々が素朴に考えたことであったと思います。天が神のいる場所であるというのは、物理的に天を指しているのではなくて、それは神が「聖なる場所」にあるということではないでしょうか。
では、この「聖なる場所」におられる神が、どうして、この汚れた世に住む私たちにとって「わたしの父」となってくださったのでしょうか。それは「天」の高きところにあるお方が、その高きところから、この世の最も低きところにまで、自らを低くなさ
2016年02月29日 11:50
聖書 ホセア書11章1-9節
<中心聖句>
11章8節
「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。」
ホセアは紀元前8世紀の北イスラエル王国において登場した預言者であります。
当時、イスラエルの国は繁栄の時代であったが、神への背信は進みバアル礼拝が宮廷や神殿で公然と行われていました。大国アッシリアの軍事脅威が迫る中、国内は政治的陰謀と腐敗が宮廷にとどまらず、民の中にも詐欺行為や悪事が横行し、その結果、北イスラエルは滅亡へと突き進んでいきました。
また、ホセアという預言者は、自らの家庭の悲劇を体験します。
ホセアは
2016年02月23日 07:15
聖書 エレミヤ書1章11節~13節
<中心聖句>
1章11節
「主に言葉がわたしに臨んだ。
『エレミヤよ、何が見えるか。』
私は答えた。
『アーモンドの枝が見えます。』 」
本日は、北本教会牧師 石川栄一牧師より 宣教をお願いいたしました。
2016年02月22日 14:31
難しい旧約も、はじめてかもしれないヘブル語も とってもわかりやすく。
今日、2月21日(日)は、石川栄一先生をお迎えしての特別礼拝でした。
宣教は 「何が見えるか」という題で旧約聖書のエレミヤ書1章11節~13節
若きエレミヤに臨んだ神の言葉は
「エレミヤよ。何が見えるか」と、言うものでした。
エレミヤは答えました。
「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます」と。
すると、神は
「あなたの見るとおりだ。」と答えられます。
そして
「わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと
見張っている(ショーケ
2016年02月15日 09:51
次週 2月21日(日) 特別礼拝&講演会
特別礼拝 10:30~12:00
宣教「何が見えるか」
エレミヤ書1章11節
※ 12:00~13:00まで、石川栄一先生を囲んで、ささやかな愛餐会をいたします。
どなたでも、ぜひ先生と、お昼ご飯をご一緒に...
2016年02月14日 20:16
聖書 ルカによる福音書10章38~42節
<中心聖句>
42節
「必要なことはただ一つだけである。
マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
「良いサマリヤ人」に続いてこの「マルタとマリヤ」の話が語られています。
38節から「一行が歩いていくうち、イエスはある村にお入りになった」と書き始めています。マルタはイエス様の一行がこの村(ベタニアだろうと思われます)に入って来た時に、喜んで家に迎え入れました。マルタは自分の客を一生懸命にもてなしました。
39節「彼女にはマリヤという姉妹がいた。マリヤは