2018.7.29 宣教「ヨブの嘆きとヨブの涙」
聖書 ヨブ記3章1-26節
ヨブ記1,2章にはヨブの試練が記されていますが、試練とは物質的なもの、財産であるとか、目に見える幸福の要素を初めに崩壊させていきます。具体的に家族が事故にあう、病気になる。こういう試練は毎日のように行われているのであって、いつ自分の身に起こるか分かりません。
ヨブ記は1章の13節には「彼が話し終わらないうちに」、また17節に「彼が話し終わらないうちに」、18節に「彼が話し終わらないうちに」と次から次に連続して災害が起こる様子が記されています。2章9節において今度は妻の要求があります。「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と。それに対して、ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか、私たちは神から幸福をいただいのだから、不幸もいただこうではないか」と諭して、最後まで姿勢を崩しませんでした。
ここを題材にして、フランスの画家ラチュールは「妻の涙」という絵画を描いています。ヨブの妻は涙を流しながら、ヨブに神を呪って信じることをやめなさいと言ったことを描いています。ここで、ヨブの悲惨な体験は、そのままヨブの妻の体験でもあったのです。ヨブの妻にとって子どもに先立たれる、その心の痛みはヨブ以上のものであったことでしょう。妻は財産もすべてを失った時も、騒ぎ立てませんでした。聖書にはその時の妻が何をしたかは記録されていません。しかし、貧困のどん底生活をし、食べ物のためにする様々な屈辱を黙って耐えたのではないでしょうか。またヨブが体の皮膚がただれ、痛みとかゆみで苦しむ姿を見て、ただ夫を見守るしかない妻も、自らの無力さに直面するという深い苦しみを体験しているのです。その苦しみが言葉となって「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と口をついたのでしょう。通常は愚かな妻ではなく、賢い妻であったのが、理性を失ってしまうほどに、夫の苦しみを共にしたことを表しているのではないでしょうか。神はヨブ記の最後で、友人たちは責められますが、ヨブの妻は責めませんでした。妻の苦しみは、ヨブの苦しみであったと同時に、ヨブの「慰め」でもあったのだと思います。