2017.2.26 宣教「失楽園」

2017年02月26日 09:29

聖書 創世記3章1-24節

 <中心聖句>

 3:6

 「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、

     目を引き付け、賢くなるように唆していた。」

 今朝のテキストは創世記のアダムとエバの話です。ここには原罪が記されています。原罪に対する赦しが実は3章で語られています。神の賛美は人間の創造につながっていきました。3章を見ていきますと、蛇の誘惑があります。アダムとエバに、神様がエデンの園で何を食べても良いが、園の真ん中にある命の木の実だけは食べてはいけないと言われた。

 蛇の最初の誘惑は女に対して、1節「園のどの木からもたべてはいけない、などと神は言われたのか」。つまり、ここには神への絶対信頼がありません。神に対する信頼が信仰ですはなくて、疑問を持つことから始まります。「この世界は本当に神が造ったのか?」「わたしは本当に神によって造られたのか?」「神は本当にいるのか?」そういうことから疑問の形で私たちの中に入ってきます。

 人間には必ず問があります。問いがあるということは特権です。そのために人間はこれだけの文明を築いてきたと言えます。その問いというものは、人間の知恵であるし知識であるのですが、そこには限界があるということです。人間は知恵の動物です。その知恵が、時に悪魔化して私共に語りかけてきます。人間が何をしても良いと思うところに、簡単に蛇の誘惑にのってしまうのです。

 蛇の誘惑はエバを誘惑しました。4-5節「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。」

 「いかにもおいしそうで」とは見て、美味しそうに見える。つまり自分の治世でおいしそうなもの、良いと思うもの、そこに悪魔的なものが潜んでいることを意味しています。アダムとエバは結局、果実を食べます。11-13節「神は言われた。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので食べました」と答えた。アダムの「あなたが与えた」という言葉ですが、「わたしは食べたくなかったのに、あの女が唆したので食べました。あの女はあなたがわたしに与えた女だ」と言っています。このように人間の原罪は神にまで引きずり込んでいきます。

 13節で女は「蛇がだましたので食べてしまいました」と蛇が自分をだましたという。誰も自分が悪かったとは言いません。つまり罪の転換をします。神の前に心から申し訳ありませんと言えない人間の罪の姿を見ます。アダムとエバの裁きが14-15節に記されています。蛇が裁かれ、その後に女に対する怒り、そしてアダムへの怒りと裁きが続いていきます。神は裁きのの神であり、また愛の神です。 神の子キリスト、罪のないキリストが神と私との間に立てられて十字架にかかられたのは、贖いの死です。キリストの十字架は裁かれるべきわたしどものために、キリストが変わって十字架にかかられました。この時代の中で、キリストを見上げて、希望をもって、必ず希望の勝利を与えてくださることを信じて生きていきたいと思います。

 

 

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