2017.1.8  宣教「イエス・キリストの系図」

2017年01月04日 10:56

聖書 マタイによる福音書1章1-17節

<中心聖句>

1:1

「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」

 

 このマタイによる福音書のイエスの系図は、歴史の中に働いておられる神のご計画と、深い神の御業が示されていて、系図の意味するキリストの恵みが隠されていることに驚かされます。

 マタイ福音書の記者マタイはユダヤ人であったようですが、自分の同胞のユダヤ人に対して書かれたものらしく、信仰の父アブラハムから始まっています。マタイはユダヤ民族にもっとも尊敬されているダビデをその中心としています。救い主は必ず、「エッサイの子ダビデ」の子孫から生まれるという信仰を持っていたのです。ここに出てくる人は全部ではありませんが、旧約聖書に登場します。

 この中に女性の名前が4人出て来ます。3節「ユダはタマルによる」とあります。タマルは悲劇の女性でした。自分の夫に子どもが生まれませんでしたので、タマルはわざと道端に立つ遊女として、売春婦の姿になりまして、自分の舅に体を売って、子供が与えられました。ただ男の子を産むことが出来ない悲しい愚かな女の嘆きままに、常識はずれのことをした女性です。5節に「サルモンはラハブによってボアズを」という「ラハブ」という女性はエリコの遊女です。さらに5節「ボアズはルツによってオベドを」というところに、「ルツ」という女性が出て来ます。ルツは姑に忠実に仕えた女性ですが、ユダヤ人ではありません。6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。ウリヤの妻という、名前は記されていませんが、この女性はバテシバだということは分かります。それが「ウリヤの妻」です。 ここに4人の女性が出て来ました。この女性4人が出てくること自体が、今から2000年前の当時のユダヤ人にとって、驚くべきことです。なぜかと言うと、ユダヤ人が自分の血統は男がつくるもので、男性社会であり女性はその中には含まれていませんでした。長男の母親が誰であったかということは、系図を作る上で意味がありませんでした。

 このように、マタイ福音書の冒頭に外国人の名前が並べられているのは、意味のないことではなくて、一人一人の存在の意味を、神はその救いの業の中に示し、その終局の救い主として、イエスの誕生を指し示しているのです。救い主がお生まれになるということの背景に、このように長い歴史の中に働いておられる神が、よきおとずれとしてキリストの日を約束しておられるのです。主イエス・キリストは、このイエスの家系の中にこのような罪ある王や女性を明らかにし、しかし、これらの人々を罪のゆえに切り捨てることではなくて、すべての罪ある者のために、十字架にかかられたお方です。全ての罪人を包み、すべての罪深い者をも、なお深く愛して下さることを示しているのです。

 

 

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