2023.1.8 宣教「イエス・キリストの涙」
2023年01月08日 05:43
聖書 ルカによる福音書19章41-48節
今朝の聖書の個所は、主イエスの受難週の最初の歩みを記しているところです。41節「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。」と。このイエスの涙は、いったい何のためであったのか。主イエスは涙を流しつつ、42節「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら。…しかし、今は、それがお前には見えない。」と言われました。このときエルサレムには過ぎ越し祭りを祝うために多くの人々が集まってきていました。その多くの人々に、平和を見る日を待ち望んで生きてほしいと。しかし今、このエルサレムの町から平和の賛美が聞こえなくなっていると。主イエスの悲しみはそこにあったと思います。「この日に」とは、44節の終わりに別の言葉で「神の訪れてくださる時」です。キリストがここにきているのに、なぜそれに耳を傾けないのかと。そこにあるのはエルサレムの都の滅びを告げる預言の言葉です。45節「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と。わたしたちの祈りとは、ただ「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ることではないでしょうか。なぜ、わたしたちは悔い改めないのでしょうか。主イエスは十字架の上で「父よ、彼らの罪を赦してください」と祈られました。実際にはエルサレムは紀元70年に崩壊しましたが、イエスを十字架につけた人間の歴史は滅ぶことはありませんでした。主イエスの祈りが滅びから守ってくださったからです。