2017.4.9 宣教「カルバリ山の十字架」
聖書 ルカによる福音書23章13-25節
イエスの生涯で、その最後の一週間を受難週と呼んでいます。私たちの教会では、明日の10日(月)から15日(土)まで夕方6時から祈祷会を持ちます。その一週間の一日一日キリストの苦難を思い返していきます。
特に木曜日に行われたイエスの審判から、十字架の決定に至るまでの経過は、4つの福音書では非常に詳しく記しています。イエスの生涯を通していかに重要なものであるかを示しているからです。
主イエスの裁判において、なぜイエスは十字架にかからなければならないのか。これらのことは私どもの救いのためだと教わっているところです。
このイエスの十字架の死は、私たちは筋書き通りだと思ってしまうところがあります。確かに神の御計画の中であったのですが、この受難週に、私たち自身がどのように受け止めてよいのかを深く考えていきたい。イエスの最終的審判者であった総督ピラトは、何度も繰り返して、キリストの無罪を主張し、群衆の訴えていることが誤りであることを指摘しています。
20節「ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて叫びかけた」しかし、群衆たちは21節「しかし、人々は、十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。群衆におびえたピラトの手によって、イエスの死刑の判決がくだされることになったのです。
イエスの生涯に示してくださった愛の道が邪魔になる。それは、どういうことなのでしょうか。群衆の心理が私たちのうちにもあり、ピラト的なものが私たちのうちにもありはしないでしょうか?
イエスの無罪を認めながらイエスを救い主キリストと認めようとしない、妥協的な生活を繰り返している。群衆の集団的犯罪は、人間の衝動によって集団的に動いてくるとき、悪魔的なものとなって、動物的な衝動になり、「十字架につけよ」と叫んだ。群衆は、すべてが悪人ではないのです。個人一人一人は、神を信じている。しかし、この集団が大きな罪を犯していきました。
イエスは、ピラトのことを知り尽くされ、無知な群衆の弱さを知っておられました。主イエスのいまなすべきことは、ただこの人たちの罪のために、十字架につくことでしたイエスは「彼らをお赦しください」との祈りのうちに沈黙されました。
私たちも、悩みの日の連続の中で、いつまであなたは沈黙されるのかと問いたくなるときがあります。しかし、神はわたしたちの祈りを無駄にはされません。この沈黙の日を通して、大いに祝福を約束してくださるのです。