2017.10.1 宣教「キリストと共に生きる」
聖書 マタイによる福音書6章13-15節
私たちは主の祈りで「悪より救い出し給え」と祈りますが、この悪とは誘惑です。教会もまた誘惑に囲まれています。ルターはこの試みを悪魔からの攻撃と理解しました。悪魔からの攻撃とは、私どもが信仰をもって生きようとするときに、私どもは戦いの中に立たされるということです。信仰に生き始めることは、この世の誘惑との戦いが始まることでもあります。ただ主の祈りを唱えたら、障害が消えてしまうことではありません。逆に真剣に祈ったら、そこに障害が起こります。時には、教会に来るよりも、自分の体を休めたいと思う誘惑と闘いながら、それを振り切って教会に集まります。教会はそのように私どもを脅かす悪魔との闘いの場でもあります。
そこで、私どもは悪魔の正体を見極めることができません。その理由は、私ども自身が罪の中に深くあるからです。、神など、どこに存在するのか。神を信じて生きるあなたは、損ばかりしているではないか。不幸ばかり経験しているではないかと、そのように悪魔は語りかけてきます。 キリストは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。キリストの十字架を負って生きるということは、キリストの十字架が自分の赦しになっているということです。キリストの十字架はあなたのためです。キリストの十字架により罪をで赦された者は、互いに赦し合って生きることができるのです。ここにキリスト者の姿が描かれています。
今日、水元教会は創立23周年を迎えました。教会はやはり罪人の集まりです。罪赦された罪人が集まる所です。しかし、教会が23周年を迎えるということは、そこに神の恵みがあって、神によって支えられているということです。この過去の恵みの恩寵に感謝して、また新しく福音の前進をはかっていきたいと思います。