2020.8.23 宣教「キリストの苦難の意味」

2020年08月18日 06:58

聖書  マタイによる福音書26章69-75節

 主イエスが逮捕された後、ペトロはひっそりとカヤパの官邸の中にもぐりこんだのです。しかし、女中から「あなたはあの人と一緒だった」と言われて、ペテロはそれを否定しました。イエスと共にいることがどんなに大きなことであったか、「主よ共にいてください」これこそ信仰の基本であり、私どもも何度も学んできたことです。この福音書の著者のマタイは、イエスがゲツセマネの園で祈られたときも、ペトロに「わたしと一緒に目を覚ましていてほしい」わたしと一緒にいて祈ってほしいと言われたことを記しています。それがイエスの弟子だということであり、イエスと共にあるということです。私どもも主イエスが共にいてくださることを願い求めて祈ります。ところが、ペトロのように、あの人はあなたと共にいた、と言われた時に受け入れることが出来ずに拒否をしてしまう。ここにイエスと共に歩み切れなかった人間の挫折が、十字架の直前の物語として記されていることに、私どもの深い魂の底に、私どもも最後には裏切ってしまうのかと覚悟しなければならばならないのでしょうか。しかしペトロは、75節「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われたイエスの言葉を思い出した時、激しく悔い改めの涙を流しました。そこに主イエスが共にいてくださるという事実があったからです。

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