2020.8.16 宣教「キリストの証言」
2020年08月11日 07:08
聖書 マタイによる福音書26章57-75節
マタイによる福音書の中で、キリストの受難のところを、今週と来週の2回に分けてお話します。エルサレムはイスラエルの国中から集まった人々で一杯でした。一年に一度のユダヤの最大の祭りである過越しの祭りのお祝いでした。イスカリオテのユダは、キリストを敵の手に渡すことをして、祭司長たちは、このユダの手引きによってキリストを捕らえることに成功しました。お祝いの祭りの背後で、黒い影がキリストの周囲に忍び寄っていたのでした。キリストはその事態のすべてをご存知でした。イスカリオテのユダが人目を避けて罪を犯そうとしている時、一方のキリストは、すべての人の罪のために、自ら身代わりとなって十字架の上で死んでいくその機会を待っておられました。一人は悪魔のとりこになって悪への機会を待ち、他の一人は、すなわちキリストは、神のご計画の中で、神の御心を受けて十字架への道を待っていたのです。私たちは神の前にあって何を期待し、その機会を待っているでしょうか。キリストは十字架の前に、弟子たちと共に最後の晩餐の時を持たれました。それは地上の最後の時でした。そのパンと、ぶどう酒を通して、自ら十字架の意味を示されたのです。「これはわたしの体である。これはわたしの血である」と言われて、パンとぶどう酒を分けるたびに、主イエスの十字架の死を覚えることを求められたのでした。