2017.2.5 宣教「サタンよ、退け。」

2017年02月07日 08:53

聖書 マタイによる福音書4章1-11節

<中心聖句>

4:10

「退け、サタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」

 今朝のテキストはよく知られている「荒野の誘惑」の話です。

 1節「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるために霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。主イエスは40日40夜断食をされました。そこで空腹を抱えながら、試みる者の声をこかれたのです。空腹を抱えられたというのは、主イエスが飢える人間の苦しみを味わわれたということです。

 その主イエスに向かって、試みる者が、あなたが神の子だと言うのなら、そして我々の飢えの苦しみを知っておられるなら、これらの石をパンに換えることが出来ないのか。この飢えを追放してくだされば、どんなに多くの人間が悲惨から救われるだろうか。これは人間の救済の道ではないか。主イエスはこの問いの中に、神の子であるということはどういうことか、人間を救うということはどういうことか、この根本的な問題を聞き取っておられるのです。飢えというのは人間にとってもっとも切実です。現実を共に苦しみつつ聞き取っておられるのです。このように試みる者は問いかけています。主イエスはは「人はパンだけで生きるものではない」と答えられた。この言葉は申命記8章に書かれている言葉です。神が本当の神ならば、石をパンに変えることぐらい簡単ではないか。そんなことも出来ない神を私共の神と言えるのかと問うたのです。

 このような問いを、私どもは一度も抱かないでしょうか。なぜ神は、ここで石をパンに変えてくれないのか、この状況を変えてくれないのかと、神に文句を言ったことがないでしょうか。これはパンだけの話ではありません。不幸にぶつかるたびに、悲しみにぶつかるたびに、神が自分にとって神でないことに疑問や不信をもつことはないでしょうか。

 悪魔は、神が神であるということに私共を試してきます。主イエスが弟子たちにキリストであることを明らかにされたとき、わたしは十字架につけられて殺されるのだと言われました。その時、主イエスはメシアと告白したばかりのペトロに、「サタンよ引き下がれ」と言われました。すなわち、サタンと弟子たちとが重なるのです。私たちも、ペトロに代表される私どもの不信仰による神を疑う心があります。

 第二の誘惑は、5節「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて」と書かれています。あなたは神の子であって、この世を救うために来たのだろう。その納得させる一番の近道は、あなたがここから飛び降りることだ。高いところから飛び降りても、神のみ使いが来て、その人が地面に着かないうちに支えてくれるはずだ。イエスは、そういう誘惑を拒否しました。「あなたの神である主を試してはならない」と書いてある」と言われたのです。

 第三の誘惑は、8節「さらに悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりをみせて、「もし、ふれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」。この世の栄光を選ぶのか、神を選ぶのかが問われています。私共もこの世の栄光の中で、信仰を失います。だからこそ、主イエスは悪魔と対決してくださっているのです。主イエスが、ここで悪魔の誘惑と闘われたのは、悪魔が問題だったからではなくて、悪魔に取りつかれている人間の罪が問題になっていたからです。

 

  

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