2017.6.25 宣教「ヨセフ物語」
聖書 創世記37章1-36節
3節に「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」。また、4節では「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」と記されています。 「穏やかに話すこと」とは、ヘブル語ではシャロームという言葉が使われています。つまりシャロームという「お互いに平和があるように」というユダヤ人の挨拶が出来ななかったということです。挨拶の言葉ができないということは、そこには平和が崩壊しているということです。ヨセフは自分が見た夢を自慢して兄たちに話しました。それは父も兄も自分を拝むという話でした。11節で「兄たちはヨセフをねたんだが、父はこのことを心に留めた。」とあります。父ヤコブは息子のヨセフを甘やかせて育てたことが原因だと気づいたのかもしれません。そして、23節では「ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが来ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ」この晴れ着はヨセフの高慢な軽率なシンボルです。ヤコブの家の平和は、肉親の愛憎によって崩壊しました。
さて、37章の後半で気づかされることは、ヨセフの沈黙です。軽率なヨセフ、神からの重大な示しの夢を、安易にしゃべるヨセフの姿は、もういつの間にか見られなくなりました。シケムの野をさまよい、見知らぬ人との出会いに助けられ、その後ヨセフは沈黙していきます。このヨセフの沈黙の中に、信仰者ヨセフの誕生を感じ取ります。自分の力ではどうにも解決できない人生の問題があることを知ったヨセフは沈黙していきました。いろいろな試練によって、そのヨセフの傲慢なこころが打ち砕かれていったのです。
その後、42章を読みますと、ヨセフは心の中で兄たちを赦そうと思っているのですが、しかし、復讐となっていきます。試練を受けて自我が取れていますが、罪は変わっていないのです。
新約聖書コリントの信徒への手紙第1章3節でパウロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように」と記しています。パウロは神の前に立つ人間が、どうしたら神に救われるのかということを考える時、神と人間が交わる場所は、それは神の方から人間の世界に入っていくということにより可能だと言っています。神には全地全能の力があるからです。神がキリストをこの世に送ってくださった。このキリストを知ることによって、人間は神とはどういう方で、何を語られる神であるかを知ることが出来るのです。