2020.5.3 宣教「主イエスの嘆き」
2020年04月27日 22:23
聖書 マタイによる福音書23章25-39節
28節に「外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」と記されています。立派なことを言うけれども心の中は全く別の考えであり、表面は良い生活をして見せるような人を偽善者と言います。人間とは、外側での正しい生活、人々からよく見える生活をするものです。そして、偽善は人々には見抜けません。「内側にひそんでいる偽善を、見抜けるのは神様だけ」です。自分でも見抜けないのです。人は、主イエスが見るその鋭さと深さにおいて自分の偽善の罪を見ることになります。教会においても人間の集まりである限り、そこには互いの偽善を作るよりほかありません。その偽善者を批判し裁くのではなくて、神の前に立つ時に自分がどんなに汚れた偽善者であるかということを神のまなざしの中で知ることが出来るのです。私たちは立派な信仰を持ちたい、信仰が高められたいと上昇志向の信仰を願います。しかし、そのような信仰ではなく、低くなりなさいと聖書は言っています。信仰において、何と自分は弱い人間なのだろうというところにまで至ったところで、キリストが自分にとって本当の意味を持ち始めるのです。この「偽善」というのは、道徳の問題ではなく信仰の問題でもあるのです。