2017.3.12 宣教「人格の価値」
聖書 マタイによる福音書5章6-8節
「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」
真面目な人であれば、誰でも正しい人になりたいと思います。しかし、この世的な幸せを求めていると、いつまでもたどりつかない。私たちが本当にどれだけ心清く生きたいか、それを真剣に求めているかということです。この「義に飢え渇く」という言葉は、神の救いに飢え渇くことと言い換えてもよいと思います。神の救いに飢え渇く人のことです。神の言葉に飢え渇いている、ということです。詩編42編1-3節にある「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」というのです。パレスチナ地方は干ばつによって砂漠地帯の燃えるような暑さのために木もなく、いつ死んでいくかわからない。どこかに水はないかと探し求めている。ただわたしが慕い求めるものは神様です。疲れているものを力づけてくださる神、この詩人は生ける神を慕うのです。7節「憐み深い人々は、幸いである、その人たちは憐みを受ける」とあります。
「憐み深い人」とは、単なる優しい人ということではありません。神の憐みは、イエス・キリストを通して明らかにされました。この「憐れみ」の意味は、聖書では人間の罪に関係した言葉であり、その人の罪を赦すことができる事が大切だと言っています。他人の罪を赦すことがなければ、憐みになりません。私達も同じように罪に苦しんで、その罪から赦されたものです。そういう人でなければ、他人に同情し、心から憐れむことが出来ないのです。キリストの生涯は赦しの生涯でした。人間の罪を自分が背負われる。これが神がキリストにおいて私どもに表してくださった神の憐みです。
「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」。清くなければ神を見ることはできません。清さとは神の属性ですから、神の清さ、神を信じて生きていくとき、私たちは自分で清くできませんが、神を求めて生きているうちに、清くされて生活が聖化されていきます。キリストは心を清くされていく者たちは神を見ると言われています。自分の穢れが清くされていく。それゆえに幸いであるというのです。キリストの十字架の死を通して、わたしたちを生かしてくださることを信じて生きていきたいと思います。