2017.4.30 宣教「何ということをしたのか。」
聖書 創世記4章1-15節
エバの産んだ子どもに「カイン」と「アベル」がいました。
カインは「土を耕す者」となり、アベルは「羊を飼う者」となりました。彼らはそれぞれ「主のもとに捧げ物を持って」来ました。
しかし、4~5節「主はアベルとその捧げ物に目を留められたが、カインとその捧げ物には目を留められなかった」。それはなぜか、聖書には何も記されてはいません。
5節「カインは激しく怒って顔を伏せた」6節「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔をあげられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。どうして怒るのかと、そんなことは当たり前だろうと言いたくなります。このようなことは私たちの現実でしばしば起こります。その時、大切なことは私たちのその苦しみや悲しみの心を神へと向けることなのです。
しかし、カインは心を閉ざし、顔をあげることも声をあげることもしないで、「罪が戸口で待ち伏せている」という神の警告も無視します。そして沈黙を守ったまま弟の殺害へと向かいました。これは神への復讐です。わたしよりも弟を愛するのだ。弟を殺せば、あなたに復讐ができると、彼に取ついた罪はそういう思いを心の底に植えつけました。
9節「主はカインに言われた。お前の弟アベルはどこにいるのか」カインは答えた。「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」殺人を犯したカインは得体のしれない自分を支配している罪の現実、正体を見つめることが出来ません。
10節「何ということをしたのか。」と、これは、神がカイン自身の行為を告白し、悔い改める機会を与えておられるのです。
13-14節「カインは主に言った。わたしの罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上にさまよい、さすらう者となってしまえば、わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言います。しかし15節で「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ7倍の復讐を受けるであろう」と、主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしをつけられたのです。
このように、神の怒りがあって、それに対してカインの懺悔があります。それに対して神は赦しを与えられたのです。今を生きる私たちにイエス・キリストの贖いの行為が、ここで記されています。