2017.4.23 宣教「地の塩として」
聖書 マタイによる福音書5章13節
<中心聖句>
5:13
「あなたがたは地の塩である。」
ここで、「あなたがた」とは、イエスの弟子たちのことです。そういうことから言いますと、私ども信仰者ということも言えます。キリスト者は「地の塩」であるということです。また同時に信仰者の集まる教会のことを言っています。主イエスを信じるがゆえに、主の栄光を現すために選ばれた者たちが、地の塩の務めをすることになったのです。私たち信仰者が、地の塩の務めをすることが出来るのは、この主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりを受けているから、地の塩になれるというのです。
塩の意味として、まず純潔さを表しています。きよめの儀式に、また身を清めるときに塩をまきます。キリスト者は純潔を保つ働きをして来ました。
第二に、塩は物の腐るのを防ぐ物とされてきました。キリスト者も完全な生活が出来る者ではありませんが、人間の罪について、誰よりも敏感で、厳しい者です。
第三に、塩は味をつけます。キリスト者は不十分ですが、人を愛します。愛が人を生かすことがあります。キリスト者は神に愛されていることを知っています。それゆえにキリスト者は生かされます。そのことが、他の人にも生きる力となっていきます。
しかし、キリスト者が地の塩であるというのは、その信仰生活によって神が活きていることです。神が共にいてくださることを示していくことです。
さらに続く言葉に「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」これは厳しい言葉です。塩に塩気がなくなるとは、もはや回復の道はありません。福音そのものを失うことです。信仰の厳しさがここで示されています。神を信じていく信仰を失うことは、聖なるものを失うことです。塩が塩でなくなるということは、役に立たないということですが、たとえ、目立たなくとも、何もできないような存在でも、塩味を失わないで、塩であり続けるということです。そのような人は「味のある人」として主に役立つという、そういう存在です。このように、私たちは、生涯、最後まで、「味がある忠実な信仰者として」あり続けることが求められています。キリストの福音を与えられて、塩の働きをする尊さを考えて生きていきたいと思います。