2018.11.11 宣教「御言葉に聴く者」
聖書 マタイによる福音書13章1-23節
3-9節の「たとえ話」では「蒔かれる種」も「種の蒔き方」も同じです。ある種が丁寧に蒔かれ、他の種は乱暴に蒔かれたというのではありません。どの種も土に「落ちた」だけです。ただ落ちた種を受け止める「土地」の違いがありました。最初の土は「道端」です。おそらく畑のそばのあぜ道に落ちたのでしょう。第2の土は「石だらけで土の少ないところ」です。岩の上に土の層が薄くあるだけのところで土の少ない所です。第3の土は「茨の間」です。「茨が伸びてそれをふさいでしまった」というのですから、茨の根が残っていた土地でした。そして、第4は「良い土地」です。ここに落ちた種は「百倍、あるものは60倍、あるものは30倍にもなった」というのです。
はじめは、見た目には何の区別もつかない土地一面に種をまくのですが、耕して、育ててみて、土地の違いや成長の違いや実りの差が出て来るのでした。この話は何を教えているのでしょうか?「種」とは神の言葉、「種まき」とはそれを教えるイエスとキリスト者たちのことです。「土地」とはキリストのことばを受け取る人々のことです。第一の人たちの心は、初めから天の国を受け入れようとしない人たちです。「御国の言葉を聞いて悟らなければ」サタンが来て、御言葉を奪ってしまうのです。第二の人たちの心は御言葉を受け入れはするが実を結ばない、一時的な信者です。「御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れる」とは感情的な信仰は、つまずきになるということです。第三の人たちの心は22節にあるように「世の思い煩いや富の誘惑」です。世間並みの生活をしようとして、あれもこれもと心が分裂したりお金の方がこの世を生きていく上で神の支配よりも大事だと思ってしまう人たちのことです。
さて、第四の人たちは「御言葉を聞いて悟る人」のことです。その結ぶ実は、100倍、60倍、30倍と人によって違いはありますが、育って実を結ぶ心は「良い土地」です。神は一人一人に御計画を立てておられます。私たちは自分の心を耕やし、素直な心で御言葉を聞いて従う者になりたいと思います。