2020.6.7 宣教「思慮深い生き方」
2020年06月03日 06:49
聖書 マタイによる福音書25章1-13節
10人のおとめのたとえは、主イエスが語って下さったお話です。10人のおとめは花婿を迎える務めを与えられました。そこで主イエスは2節で「5人は愚かで、5人は賢かった」と二組がいたと話されます。この5人の思慮浅いおとめの愚かさはどこに表れたのでしょうか。それは、明かりは用意していたが、その明かりを絶やさないための「油」を用意していなかったことです。賢い者はその逆で「油」を用意していました。夜が更けても花婿が現れないので10人のおとめたちは皆、眠ってしまいました。夜中に「花婿が来た、さあ迎えに出なさい」という呼び声がして一斉に飛び起きました。そのとき、準備が出来ていた賢い5人のおとめたちは明かりを用意したけれども、5人のおとめたちは燃える火を用意することが出来なかったのでした。ここに出てくる「賢い」というのは「思慮深い」という意味です。さらに言いますと、13節「目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから」と言われました。私たちは、いつイエス様にお目にかかるかわからないのです。礼拝に出席する意味は「あなた方は主イエスを迎える用意が出来ていますか」との神からの問いかけを聴くことです。さらに、ここで語られている「あかり」とは神の霊です。聖霊が降ると人は変わります。清められていくのは聖霊の働きです。私たちは、神様から頂いた賜物としての神の霊を失わないように生きていきたいのです。私たちが神から頂いた賜物としての霊を失わいようにするためには、それは「祈り」によります。朝に夕に祈りの火を消してはいけません。