2017.2.19 宣教「恵みのキリスト」
聖書 マタイによる福音書5章1-3節
<中心聖句>
5:3
「心の貧しい人々は、幸いである。」
キリストの生涯でもっとも華やかな伝道の時代は、ガリラヤの伝道の時代だと言えます。
4章23節には「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」と記されています。このことからその評判はガリラヤ中に広まって行きました。キリストは神の霊に満ち溢れていました。人間の心の貧しさからの解放は、キリストによってのみ解放されることだと言われたのです。
5章3節で「心の貧しい人々は幸いである」と言われました。すなわち「あなたがたはすでに貧しい者」だと言っておられるのです。心が貧しい者をキリストは救ってくださる。神の救いは「心の貧しい者が」神の恵みによって生きられるということです。
自分のような者を神は愛してくださる。自分には誇るべきものは何もない。ただ神のみを仰ぐという信仰のことです。
神によってでなければ生きることができない。それがほんとうの貧しさです。貧しい者とは、キリストのみしか、生きることが出来ない人のことです。神以外に、キリスト以外に、頼る道がない人が「心の貧しい人」です。そして、天の国はその人たちのものである、と指摘しています。
イエスは私共に出来ないことを求めることはなさいません。出来ないことを人に求めて、それが出来たら「神の祝福が与えられるであろう」というように未来のむなしい約束をされたのでありません。キリストを信じる者にとっては、これらのことはすでにいま事実になっているということです。 わたしたちの心は霊においても貧しい者であり、愛においても貧しい者です。貧しさゆえに、キリストの愛を受けなければ豊かになれません。キリストとはどういう方であるか。キリストの中に神であり、人であるという性質が、私どもには理性的には考えられないことです。一つの人格の中に二つのものがる。キリストは全き人でした。キリストは罪を犯さなかったのです。罪がなかったということです。キリストの中心は神を中心にした生き方です。
イエス・キリストは、その生涯を神第一に生きられました。彼の生涯は悩みながら、その悩みに耐えて、苦しみながら、その苦しみに耐えて十字架に至るまで忠実に神に従い、神のために苦しみました。それは自分を中心にしていくことではなく、中心は神です。私共人間の生き方はいろいろあります。ここで問われていくことは、真実に生きるということです。真実に生きるとは、この世の価値によってではなく、自分の心の貧しさによって、キリストの恵みと愛を知ることです。私共の現実がどんなに苦しくとも、それでも私たちは目をしっかりとキリストに向けていく。心の貧しい者を神は祝福してくださる。そして幸いな者と言ってくださるのです。