2017.3.5 宣教「悲しみの意味」

2017年03月03日 06:42

聖書 マタイによる福音書5章4-5節

<中心聖句>

5:4

 「悲しむ人々は、幸いである。

        その人たちは慰められる。」

 今日のテキストは4節に「悲しんでいる人たちは、幸いである」この言葉を聞くときに、不思議な言葉だと思います。牧師はしばしば悲しみに出会います。それはわたしの務めです。その時に、その人の悲しみに出会って、人の悩みを聞く、または人が亡くなったその悲しみの中にある人、そういう人に「おめでとう、悲しんでいる人は幸いです」とは言えません。ここに記されている「悲しんでいる人は、幸いである」という言葉は、これは私ども人間には語れない言葉です。こういう言葉を語れる方は、「たった一人の方を除いては」ありません。その方は、イエス・キリストのことです。

 私どもが語れるのは、「悲しまないで生きてください。悲しまないで生きることは幸いです」ということです。しかし、人間の現実の生活の中で、誰もが悲しまずに生きることは不可能なことです。キリストこそ、悲しみに生きた方でした。十字架に至るまで歩み抜いたイエスが、「悲しむ人は、慰められるであろう」と言ってくださる。

 この世に生きるキリスト者の悲しみとはどういうものでしょうか。罪深いこの世にあって、正しく信仰をもって生きることは決して喜びだけではありません。キリスト者は高い倫理性をもって生きる人たちです。ですから、この世との戦いの悩み、苦しみが特徴です。

 この悲しみとは、自分の罪に悲しむ者です。罪に対する悲しみと言えます。次に「その人たちは慰められる」ということは、神との交わりが回復された人のことを意味しています。神は人間の持つどんなに重い罪をも解放してくださる。心の重荷、心の底にある罪に悲しむ者の罪を取り除いてくださるのです。私どもの罪は、神から赦していただく以外ありません。

 次に5節に「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と記されています。柔和な人とは、謙虚な人です。へりくだる道は、自分が赦されなければならない存在です。罪である人間であることを自覚することです。現代は力ずくの生き方がまかり通っています。だからこそ私どもは悲しみを深め、心を痛めます。柔和な人こそ、自己主張せず、神との交わりによって強さを与えられる人です。柔和な人は神から多くのものを託され、それを生かすことができるから、地を受け継ぐことになるのです。この約束の最終的な成就、神の国の完成を待って、神に希望をもって、生きていくものでありたい思います。

  

  

サイト内検索

お問い合わせ先

水元教会 東京都
葛飾区水元2-5-9
125-0032
03-3607-0910