2016.11.6 宣教「愛の動機」

2016年11月06日 08:55

聖書  フィリピの信徒への手紙1章15から26節

<中心聖句>

 1:21

 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、

               死ぬことは利益なのです。」

 

 今朝は、先に召された信仰の先達である諸兄姉を記念して礼拝をしています。特に今日はそのご家族も出席されています。永眠者礼拝は故人の写真をおいて、先に召された人々の生前を思い、彼らをそのように生かした神に賛美を捧げています。

 今朝のテキストは、パウロがこのフィリピの手紙を書いた場所がエフェソであるとか、ローマであるとかの議論がありますが、大体の学者がローマでこのフィリピ書を書いたと言っています。

 パウロが伝道に励んでいるとき、二つの面で苦労したということです。一つは自分が獄中に入れられた跡、制約された生活をしなければならないことです。

 ローマでのパウロの伝道に対して、妬みや争いの念にかられて、キリストを宣べ伝えるものがいれば、他方では善意をもって、愛の動機からキリストを伝えているものがある、と彼は宣べています。パウロは熱心なキリスト教の迫害者でしたが、ダマスコという町の途上で、キリストと出会い、キリスト者となりキリストの福音を語る者となりました。聖書の箇所を読みますと、彼はキリスト者を見つけ次第縛り上げて殺して、そしてエルサレムに連行しようという思いで行ったその町で、全く思いがけない劇的な出来事を経験しました。パウロはそのことは偶然に起きたことではない。そうではなくて信仰を持って振り返ったときに、実は「母の胎内にあったときから、自分は選び分かたれていた。そこには神の恵みと召しがあった」と言っています。そういう理解をもって伝道者として歩み始めるということになったのです。このようにして伝道者パウロが誕生しました。

 パウロがローマに伝道していくと、パウロの話を聞こうというので、多くの人々が集まったと思われます。そうすると今までローマで伝道していた人たちは、パウロに対してねたみ心を起こさずにはいられない。それが争いとなっていったようです。18節「だが、それが何であろうか。口実であれ、真実であれ、とにかくキリストが告げ知らされているのですが、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」。「口実であれ、真実であれ」とは、見栄や、口実で伝道している人たちがいるということです。。あるいは真実な思いをもって伝道している人たちもいるのです。そのように一生懸命に働いている人たちがある。しかし一方は非難すべき人であるかもわからないし、一方は真実な人であるかもわからない。けれどもパウロは、要するに伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいる、と彼はこのように言っています。見栄から、口実からする人もあるが、あるいは真実からする人もあるだろうが、伝道する者の生活が違い、やり方も違いがあるかもわかりませんが、結局、誰もがキリストを宣べ伝えているということであれば、キリストは一切のことを超えていく真理そのものなのだから。何が良くて、何が悪いという判断は、終末の日にキリストがお決めになることです。伝道する者はどんな思いで伝道したとしても、キリストがそのような人たちを超えた方だから、このキリストを伝え、このキリストを愛していくことこそ、わたしたちの一つの大きな使命ではないかと、パウロは言っているのです。パウロは伝道に対して非常に広大な精神を持っています。これが彼の優れた伝道者としての器であったということです。

 

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