2018.7.22 宣教「真の平和」

2018年07月16日 17:54

聖書 マタイによる福音書10章34-39節

34-36節には「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和でなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる」と記されています。何事かをするために「わたしが来たと思ってはならない」「平和をもたらすためだと、思ってはならない」つまり、イエスが否定しておられるのは、平和をいとも簡単に与えるという、たやすいやり方を否定しておられるのです。キリストの平和は、むしろ剣の後から訪れるのだというのです。この「剣」というのは、家族の最も親しい者の間に生じる争いと敵意です。

 平和の主が来られたのに、その福音を受け入れない人々は家族秩序も社会秩序も混乱しています。キリストは「御心に適う者に平和を」もたらす方です。37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、ふさわしくない」とはどういうことでしょうか。本来、家庭の秩序は神から与えられた権威を持って構築されています。ただ、親に、夫に、妻に、盲目的に従って行くことが真実な愛ではありません。

 38節の「自分の十字架を負って私に従って来なさい」とは、キリスト者に主イエスの道と同じ道を求められているのです。主を愛するよりも、家族の生活に代表される地上の生活を愛する者はわたしにふさわしくないと言われるのです。39節「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」私たちは皆、かけがえのない価値があることは事実です。しかし、その価値あるものをあえて捨てよ、それによってさらに素晴らしい価値を見出すのだと言われるのです。

 さて、この言葉を聞いた弟子たちは、十字架を負うことが出来たのでしょうか。いいえ、彼らは皆、逃げてしまいました。しかし、弟子たちはその後、ほとんどが殉教者の道を選びます。それは、主イエスの復活の信仰が、十字架を負って生きる人間に生まれ変わることが出来たからなのです。

 

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