2022.9.25 宣教「祈りの確信」
2022年09月25日 05:27
聖書 ルカによる福音書18章1-14節
信仰生活を全うするために大事なことは祈ることです。神を信じていると言いながら祈ることがないと言うのはおかしなことです。「祈りの精神」を書いたP.T.フォーサイスは、祈らないことは罪だと言っています。また祈りに対する気のゆるみのために私たちの信仰生活が堕落していくと書いています。
今朝のテキストの1節に「主イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえ話をされた。」とあり、二つのたとえ話をされました。まず一つ目は、神を畏れず人を人とも思わない不正の裁判官とやもめです。やもめは不正の裁判官に対しても必死で自分は正しいと訴えます。やもめには、それしか道がないからです。二つ目のたとえ話では、ファリサイ派の人と徴税人です。ファリサイ派の人は「このような徴税人のようなものでないことを感謝します。」と祈ります。それが神の前に誇り得るものでした。徴税人は自分の祈りが必ず聞かれるという確信がもてません。当時のユダヤの社会でローマの手先である徴税人は嫌われ者でした。この徴税人には自分への絶望と悲しみがあったと思います。ですから、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と言いました。主イエスは14節「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」と言われました。罪人であることを自覚するとき、わたしたちも、このように主イエスの憐れみの中に立つことができるのです。私たちがどのように祈ればよいか、祈りの言葉はその時その時に主イエスが与えてくださいます。信じることと祈ることは同じです。