2016.12.11 宣教「神を待ち望む」
聖書 詩編42編1-6節
詩編42編の詩というのはある民族が苦しんでいる場合に、その民族のことを歌った詩だという人もいますが、この詩はある個人のいわうる信仰経験、人生経験、個人の苦悩の中で、個人が神にどのように対応していかなければならないか、あるいはどのように対応したかということが、記されています。
ある意味ではこの詩は個人的な詩であると言えるのです。悩んでいる人にとって、この詩編42編は非常に大きな力を与える、そういう詩です。昔からこの詩によってどれだけ多くの人々が絶望の中の淵に立って失いかけた信仰を回復した、真の詩であるという詩です。そして、この42編は敬虔な心の自らの指摘であると、このように言って表しています。
2-3節に「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことが出来るのか」非常に切実な詩です。パレスチナ地方というのは、砂漠地帯ですから、雨が何日も何日も降らないということになってきますと、すべてのものが乾燥してしまいます。そこに住んでいる鹿の姿は文字通り、いつ死ぬかもわからないという姿です。その鹿は、どこかに水はないかと探し求めている。谷の水を求めるように、わたしの魂はあなたを求める。この詩人の心境は、わたしが慕い求めるのはあなたです。神様です。荒野の中に放り出された弱い鹿が、どこかに水はないかと探し求めていくように、私の魂もただあなたを慕い求めていきます。4節「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり、人は絶え間なく言う。お前の神はどこにいる」と。この詩人はこの苦悩の中で、5節「わたしは魂を注ぎ出し思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」自分は楽しかったことを思い返して、その悲しみに打ち勝つ努力をした。しかし、自分は本当の心の豊かな救いに与ることができない。6節で「なぜうなだれるのか。わたしの魂よ。なぜうめくのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こし、わたしの救い』と、わたしの神よ。」
私共に大事なことは、うなだれ、うめく、心が乱れていくということがあっても、、神を待ち望むということだと教えているのです。