2018.8.19 宣教「神を知る者」
聖書 マタイによる福音書11章25-27節
26節「そうです。父よ、これは御心に適うことでした」と言われまし。神は御心を持って、恵みを持って私どもを救うために選んでくださいました。神はどのようにして、その御心を表されたのでしょうか。25節「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」ここに出て来る「知恵ある者や賢い者」とは、当時の律法学者、ファリサイ人と言われた信仰熱心で聖書に詳しい、律法について権威を持って語ることのできる人のことです。なぜ、彼らは主イエスを退けたのでしょうか。町の人々が主イエスの言葉を聞いても、彼らは受け入れなかったのです。知恵や賢さ、または愚かさの尺度の基準はすべて主イエスご自身のものです。この賢さを誇っている人々に対して、主イエスは、主のみ言葉、主のわざが持っている真実の意味を隠して、幼子のような者にお示しになったのです。
それは、この世の知恵や賢さのとりこにならず、人間の賢さから解き放ってくださるためでした。現代の人間は科学的な理性ゆえに、神の子が処女マリアから生まれたなどという馬鹿らしい奇跡を信じることは出来ないと言います。キリストの十字架も復活も、愚かなことで、まさに信じられないことだと言います。しかし、賢くなるということは、神を離れ、この世界を破壊していくことになっていきます。私どもの中には罪があります。その罪とは、神を知らずにいることです。私たちは神を頼りにしなければ、正しく生きていくことが出来ないのです。
ある意味では愛するということは、愚かなことかもしれません。自分には何の得にもならないこと、貧しい人を助け愚かな愛のわざに生きる人がいます。利口な人はこのようなことは避けていきます。27節「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。主イエスが神に遣わされてなされる神の恵みのわざは、父なる神と主イエスの愛の共同の作業であったというのです。神は、私たちの人間の歴史の中にキリストを通して語られます。私たちは、キリストを通して神の言葉を聞き、キリストの言葉は神の言葉であるということです。