2017.10.22 宣教「隠れたことを見る神」

2017年10月18日 13:57

聖書 マタイによる福音書6章16-18節

 今朝は断食の話です。主イエスは必ずしも断食を勧めておられません。ファリサイ派の人々は週に2度、断食をして苦しみを自分に強いて、神の裁きに備えるように戒めました。しかし、主イエスは、その断食の行為を通して、神の働きが見えてこないことを嘆かれるのです。

 主イエスの生涯の初めに、荒野の誘惑がありました。40日40夜、主イエスは食を断たれました。悪魔がやってきて、石をパンにせよという誘惑をしました。悪魔の最初の誘惑です。主イエスは飢える人間の悲しみを深く味わわれました。私どもが神に出会うために、わざわざ断食は必要なことでしょうか。私たちは飲み食いして、満腹状態で、満ち足りた気持ちでいることと、やはり食事を自制することと、どちらが神に出会いやすいことでしょうか。やはりそれは自制することの方が、神に集中します。神に集中することが神を思うこととなります。それゆえに断食と祈りとは、よく組み合わされているのです。

 しかし、17節「あなたは断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい」と記されています。これは何を意味するのでしょうか?やはりここでも徹底的に自分を隠すことを求めておられます。頭に油をつけ、顔を洗って、断食していることを誰にも気づかれないようにすることです。これは断食に限りません。信仰の誘惑は、いつでも、人に見せようとすることにあります。それは信仰の本質に関わります。神は、私たちの隠れたところを見ておられるのです。

 

 

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