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2018.6.17 宣教「飼い主のいない羊」
2018年06月12日 07:47
聖書 マタイによる福音書9章27-38節
27節「イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と言いながらついて来た。」ここで「ダビデの子よ」とは、救い主を意味して、メシアの称号です。しかし、30節で「二人は目が見えるようになった。イエスは、『このことは、だれにも知らせてはいけない』と彼らに厳しくお命じになった。」当時、ユダヤの人々は救い主を待ち望んでいました。しかし、救い主であることが明らかになる場面で、イエスは「だれにも知らせてはいけない」と厳しくお命じになったのです。しかし、この二人の盲人は、出て行くや否や、主イエスのみわざを言い広めました。このイエスがなさった奇跡、二人の盲人の目が見えるようになったという事実そのものの中には本当の救いはなかったのです。そのことをイエスはよく知っておられました。だから厳しくお命じになったのだと思います。イエスが二人の盲人に求めたのは、主イエスが「わたしにはできるのだ」と言われたときに「はい」というだけでした。
しかし、ファリサイ派の人々は信じているといいながら「はい、主よ、その通りです」と言いながら、その「はい」ということを自分で偽り、自分の信仰を表面的に飾ろうしました。不信仰な人々ではありませんが、自分たちは自信をもって、自分の信仰の名において、自分の気に入らないことは退けるのです。自分たちが気に入らないものは悪魔のわざだと考えているのです。信仰とは、自分の知識を誇ることではなく、また自分はこんなに弱い人間だと嘆くこともないのです。神の前に出たときには「主よ、その通りです」と言うだけなのです。