11.8 宣教「恵みと平和の福音」

2015年11月10日 09:50

聖書 フィリピの信徒への手紙1章1-2節

<中心聖句>
1:1
「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから
            惠と平和があなたがたにあるように。」
 
 このフィリピの信徒への手紙は、エフェソ、コロサイ、フィレモンの書と共に
伝道者パウロが獄中から書いたものであります。このような状況の中でパウロは、
どれほど恵みと平和を祈ったことかと思わさざるを得ません。
 
 「恵み」とは何でしょうか。それは何か良い行いによって与えられるものでは
なくて、自分には本来与えられるべきものでない者でありながら、与えられるの
が恵みです。人間は罪を犯すことなしには生きていけないものです。自分で救う
力を持っていない。その救いこそがキリストの十字架です。そして、これこそが
「恵み」なのです。
 獄中のパウロが、まず祈ることは恵みがありますように、ということでした。
神の恵みによって与えられた恵みこそが、人間が多くの失敗、罪の中でも生きる
ことが出来る理由なのです。
 
 人間は生きて行くために戦っています。このような中で無風状態の平和はあり
ません。この世の嵐を避けようとしても、それは無理です。しかし、どんなこと
が起こっても揺らぐことのないように心が安定した時、はじめて平安があります。
 
 神の「平和」とは何か。
 パウロはローマの信徒への手紙5章1節に「このように、わたしたちは信仰に
よって義とされたのだから、わたしたちの主・イエス・キリストによって神との
間に平和を得ている」と記しています。
 
 平和は誰もが望みます。しかし、国が大国になろうと進む時、滅びの道を歩む
ということを聖書から学ぶことが出来ます。旧約聖書のイザヤ書2:4には「剣を
打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」と述べています。このように聖書
は人間の願いや思いと違うことを示めしています。主イエスは「偉くなりたいと
思う者は仕える者に」と言われる。それは「謙遜」であるべき教えということ以上
に、この世界は「逆転すべき世界」であるとの指摘ではないでしょうか。
 
 フィリピの教会というのは非常に愛情に満ちた平安な教会であるような印象を
与えますが、しかし教会に戦いがないということではありませんでした。教会の
周辺には異端者やユダヤ教徒の反抗もあったでしょう。キリストを信じる者が、
時には、おびえることも、たじろぐこともあったでしょう。
 
 この1章を読み進んでいきますと、最後の27節には「ひたすらキリストの福音
にふさわしい生活を送りなさい」と書かれています。
キリストの福音とは、掟でもなく律法でもなく、道徳でもありません。福音とは
良き訪れです。キリスト教では人間は生まれながらにして罪というものがあると言
います。自分というものを振り返った時、わたし達は神の前に立つことが出来ない
ものです。しかし、キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださった。
この福音を信じて、罪にとらわれることなく、福音にふさわしく、その置かれた状況
の中で生きて行きなさい。とパウロは勧めています。
 
 私たちの力ではなくて、私たちを守り支えてくださる神を信じて、喜びと感謝を
持って、ひたすら福音にふさわしく生きて行きたいと思うのです。
 
      
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 しかし、キリスト者は最終的には勝利者となる。それは私達の力ではなく私たちを支配される神が、守り支えて
くださるという勝利の確信です。ですから私たちは
 

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