2-15.10.11 宣教「聖なる公同の教会」
2015年10月13日 05:59
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聖書 エフェソの信徒への手紙4章1~16節
<中心聖句>
4章7節
「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物の
はかりに従って、恵みがあたえられています。」
今朝は、使徒信条から「公同の教会を信じる」とはどういうことか。という
ことを学んでいきたいと思います。
エフェソ4:5には「主は一つ、洗礼は一つ・・・」とあります。
この世を超越し、摂理をもって一切のものを導いておられる一人の神を信頼し
神に一切をゆだねて生きていく。この一人の神の前に立って御言葉を聞いていく。
そこに一致ということが満ち溢れてきます。
7節には「わたしたち一人一人にキリストの賜物のはかりに従って、恵みが与え
られています」とあります。私たちが現実の生活の中をする中で、キリストから賜
る賜物が一人一人に恵みとして与えられているというのです。この賜物は私たちが
自分で作り出したものではなく、神が一人一人に神の恵みとして、私どもに与えて
下さったというのです。
教会というのは現実には様々な問題を持っています。教会ほど様々な違った人が
集まる場所というのは珍しいと思います。年齢の差、職業の違い、男女という区別
そして様々な境遇の中にある方々が集まっています。
そういう状況の中にある人々が教会に集められて、そうして、一つの御業を一人
一人が聞き合う。そこに、一人の神を中心とした信徒の交わりというものがあるの
です。
では、「キリストの賜物のはかり」とは何でしょうか。
8節に「そこで、高い所に昇るとき、捕らわれて人を連れて行き、人々に賜物を分け
与えられた。」とあります。これは旧約聖書の詩編68編19節からの引用といわれて
おります。 パウロは、この言葉の中にキリストが一人ひとりに対して、その賜物を
分け与えたのだと言っています。
低い所というのは、この世界まで降りてこられるというのだけではありません。
使徒信条にありますように、キリストは人間の罪のためにあがないとなって地上に
降りて来られただけでなく、十字架にかかって黄泉にまで降りてこられたのです。
しかし、キリストは三日目によみがえり給うた。キリストは復活して、神の座にお
いて、わたしたち一人一人にこの賜物を与える方となるために天に昇られたのです。
ここで大切な事は何かと言いますと、賜物が恵みとして受け取ってまいりますと、
私どもが、自らの賜物というものに対して、いつでも謙虚でなければならない、と
いうことです。
何も出来ないという人はない。何も出来ないと思う必要もない。いそいそと立ち
働かなくても、友のために、とりなしの祈りをする。そのように、神様はそれぞれ
に必要な恵みの賜物を与えてくださるのです。
私たちは、この与えられる賜物の多様性ということをよく理解して、あの人のよ
うに出来ないからダメだと考える必要はないのです。神様は一人一人にそこで出来
ることを必ず私どもに恵みとして与えて下さるのです。
そのことを理解して、感謝して受け取って、そうして共に神の栄のために生きて
いきたいと思うのであります。
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