2015.11.1 宣教「この時を忘れず」

2015年11月01日 19:44

聖書 詩編119編169‐176節

<中心聖句>
 169節「主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。
       御言葉をあるがままに理解させてください。」
 
  今朝は、先に召された信仰の先龍である兄弟姉妹の足跡を記念しつつ、また
 そのご家族もご一緒に礼拝を守りたいと思います。
  
  詩編119編は詩編の中で一番長い詩であります。ヘブライ語のアルファベット
 の数に従って「アレフ」から始まって「タウ」まで22区分され、それが8節づつ
 あります。その8節づつが各々その属する同じアルファべってで始まっている。
 最初に発見された時は文章の区切りも、音の符号もなかったようですが、それを
 古い学者達が区切りをつけて、音符号をつけて今日の誰でも読める聖書にしたの
 です。この事に当たった学者たちはどんなに深い感動をもって、この原典を読み
 とったかと思うと、聖書はわたしにとって感動そのものです。
 
  169節に「御言葉をあるがままに理解させてください」と詩人は言っています。
 この「御言葉」というのは、私共の知識でも知恵でもありません。この世の賢者
 や学者のの言葉でもない。「神の御言葉」です。
 
  トマス・ケンピスは「キリストにならいて」の冒頭に「もし私たちが本当に光り
 に照らされ、あらゆる心の盲目さをまぬかれたいと願うならキリストの生涯の振る
 舞いにならえ」と教えています。「行いでなく信仰によってのみ義とされる」こと
 も正しいが、その信仰が生活の中に生きているかは謙虚に吟味しなければならない。
 「信仰による義人」とは、その信仰によって誠実に生きる人をいうのです。常に神
 の御手によって支えられなければ正しく生きていけないのが人間の現実だというの
 です。
 
  私共はしばしば神の御心から離れることがありました。信仰を持って学んだその
 歩みの途上でも、神の御心から離れることがありました。
  しかし、たとえそのようなことがあっても、悔改めて神のもとに帰っていく時、
 神は放蕩息子を迎えと父親のように、ぼろぼろの破れた心のままを抱きしめて、神
 に帰ったことを喜んでくだるのです。
 
  ヨハネ黙示録2章3-4節に「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために我慢し、
 疲れることがなかった。しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころ
 の愛から離れてしまったのです。」とあります。
 エフェソの教会には多くのほむべきことがありました。しかし責められることがある。
 それは「神の愛」から離れたことだと記しています。
 初めの愛に帰れ。その救われたこの時を忘れないようにと御言葉は語っています。
 
  私たちは初めの愛、その救いの喜びを忘れない者としてくださるように、祈りつつ
 主のために励んで生きたいと思うのであります。
 
             
 
  
 
 
 
  
 

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