2015.11.15 宣教「光の子の賢さ」

2015年11月16日 06:23

聖書 ルカのよる福音書16章1-13節

<中心聖句>
13節
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
 
 この16章の物語は感動的とは言い難い、むしろ、なぜこのような物語が
聖書の中に記されているのかという戸惑いを覚えます。
 
 1節に「この男が主人の財産を無駄遣いしている」主人が汗水流して得た
財産を大事にしないで好きなように遣っている。そのことが見つかって、ど
うしたらよいのかわからなくなった時、反省するどころか何とかして、もう
一度自分の才覚を生かすことを考えます。彼は自分に負債を負っていたので
はない、主人に対して負債があった人々を招いて主人に対する借金を少なく
してやるのです。自分の将来を確保するために、精一杯抜け目のないやり方
をしたのです。
 
 8節に「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあ
ります。「抜け目のないやり方」とは「賢いやり方」とも言えるでしょう。
不正な管理人は、いまさら自分の愚かしさを何とかしろと言われても困る。
いまさらどうしようもない。と考えたのかもしれません。
 
 いったい、ここで主イエスが求めておられる賢くふるまうとは何でしょう
か。主イエスは主に従う者に、それにふさわしい利口な生き方を求められる。
 
 実は弟子たちはやがてイエスを捨てて逃げていきます。イエスは自分を捨
てる愚かしさが弟子たちの中にあることを見抜いておられる。だから厳しく
その愚かしさを捨てることをお求めになる。そして、自分たちが愚かである
ことに目覚めさせてくださるのです。
 
 「この世の子」と「光の子」が対比されていることに注目してみましょう。
わたしたちは「この世」に生きています。ここ以外に私たちの生きる世界も
時代もないのです。わたしたちが「光の子」として生きて行くとき、人生は
日々の戦いです。途方に暮れないことはありません。行き詰ります。しかし
問題は、そこでうろうろしないで真実に「光の子」として生きることを知って
いるかということです。
 
 「光」とは神の愛の光、神の愛、主イエスがもたらしてくださった光です。
信仰に生きる者は、その光の中で生かされ始めています。私たちは何か苦しい
ことがあると、その光まで暗くなると、自分で思ってしまいます。
しかし、光そのものは少しも揺らめいてはいません。自分が揺らめいている。
「賢い」ということは、状況を見抜くこと。何が本当の力かを、みきわめると
いうことです。
 
 わたしたちもこの世を軽視しないで、この世の生活を大切に、忠実に生きる
ことが求められています。しかし、聖書は、やはりこの世のことは「小事」で
あるとしています。神と富との両方に仕えることは出来ないのです。それにも
かかわらず、小事は大事に密接に接合しています。
 さらに注目したいのは、この不正な管理人は自分の最後のチャンスを利用し
て友をつくり、そのやり方を利口であるとほめられているということです。
すべてのものが過ぎ去って行く中で、いつまでも存続するもの愛の世界の形成
を主は求めておられます。光の子の、この世における生き方は、愛において生
きる「生」なのです。
   
       
 

サイト内検索

お問い合わせ先

水元教会 東京都
葛飾区水元2-5-9
125-0032
03-3607-0910