2015.11.22 宣教「神との和解」

2015年11月22日 22:16

  聖書 コロサイの信徒への手紙1章21-23節

 <中心聖句>
  23節
  「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、
        あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」 
 
 
 現実には、自覚的に神のことを考えなくても、人間は生きていくことが出来ます。まして、神のことを考えない時には、神に敵対して生き ているということも考えられない場合が多いのではないでしょうか。
 
 21節の「あなたがたは、以前は神から離れ、悪の行いによって心の中で神に敵対していました。」とはどういう意味でしょうか。
 
 このことを人と人との関わりから考えてみますと、表面的には何もないように見えていても、相手を本当に愛していないとすぐに相手に反対したり何かあると相手を疑ったり、あるいは陰湿な態度をとるというようなことが起こったりするのです。心の内で他者を敵として生きて行くというときに、またそのような世界では犯罪が多いということです。それは愛が枯渇している「徴」でもあります
 
 しかし、22節に「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」とあります。
 
 当時のコロサイの教会の中では二元論の立場に立って、人間の体というのは悪に満ちたものである。という考えがありました。こういう一つの異端思想というものに対して、しかしパウロは、はっきりとキリスト教の福音とは、十字架の上に掛けられたキリストが肉を裂き血を流して行かれるという具体的な十字架の死というものによってのみ、私たちが罪から赦される、そうして神と和解していくことが出来るのだと言いきっているのです。
 
 罪を赦していただいた私たちが、神を信頼して寄りすがって行く時、神は私どもを支え導いて下さるのです。
 
 23節には「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」それは、信仰にかじりついていく。どんなことがあっても、その信仰から離れないことです。
 
 パウロはこのキリストの福音が、全世界に伝えられるということの使命をもっていました。キリストの福音が宣べ伝えられることが非常な困難であると思われていた時代に、そのところに、なお、福音が伝えられていくという。この望みを新たに、私たちも、どういうことがあってもどういう国や人であっても、キリストの福音を伝えていく。そうしてキリストの十字架に依らなければ、人間の救いはないのだということを、もう一度確信をもって歩んでいきたいと思うのです。
   
     
 
  
 
 
 
 
 

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