2015.11.29 宣教「ラザロへの愛」

2015年11月29日 20:42

聖書 ルカによる福音書16章19-31節

<中心聖句>
 29節
 「お前らは兄弟たちにはモーセと予言者がいる。
              彼らの耳を傾けるがよい。」
  
 今日からアドベントを迎えます。
 私たちはキリストの降誕を、この特別の時を、ただぼんやりと待つのではなく、キリストの前に、どのように生きなければならないのかということを考えてみたいと思います。
 
 ここに不思議な物語が語られています。一方は金持ちで、この世で幸福と繁栄を十分に楽しんだ人間。もう一方は住む家もなく、その金持ちの玄関に座っていたラザロです。地上の生活において対照的な二人は、彼らの死んだ後も対照的であったと記されています。ラザロは死んだ後、天使たちによって「アブラハムのすぐそばに連れて行かれた」とあり、金持ちは、死んで陰府に行き、そこで「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいる」身となったというのです。この表現は理解しようとしてもわかりません。生前金持ちで豊かな生活をした者は死んだ後は苦しむが、生前貧しかった者は、死んだ後は慰めが与えられる。そのように考えると、この話は分からなくなります。
 
 そういうことではなくて、自分の生前の生き方が問われているのではないでしょうか。それだからこそ、金持ちは自分の兄弟たちが自分と同じ運命をたどらないようにと願って、27-28節にあるように「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が5人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。」と頼んでいます。
 
 この金持ちは、玄関の前に貧しいラザロが座っていたのを知らなかったはずはありません。むしろラザロが玄関に座っていることは目障りであったでしょう。しかし、それを認めていたということは、金持ちの寛大さではないでしょうか。それでは、このたとえ話には、どこに問題があるのでしょうか。
 
 それは、このラザロと自分とは別な人種であるかのように、彼を差別する気持ちが心の中にあることではないでしょうか。玄関の前に座れせてやっているのは、それだけでも寛大な処置なのだと思うことは人への差別の心です。もし、主イエスが自分の家の玄関先に座っておられたら、そんなところに座らせては申し訳ない、中に招いて、もてなすと考えるのではないでしょうか。主イエス・キリストはマタイによる福音書25章45節で「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。」と語られています。キリストはこの世の小さい者、みじめな者と共におられるのです。ラザロを玄関先に座らせたまま放置したこの金持ちは、キリストを玄関先に放置したことになるのです。
 
 シュバイツァーは、この聖書の個所を読んで、アフリカはヨーロッパの玄関先に座っているラザロだと気づきました。そして彼はアフリカへの医療伝道を始めました。私たちの愛は不完全であり、他者を助けるといっても限界があります。しかし、神は、私たちが限界をもちつつも、少しでも他人を自分の兄弟の一人として思いやり、愛していくことを、私たちが真剣に問題にするかどうかを、ごらんになっておられるのではないでしょうか。
 
       

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