2015.12.20 宣教「イエス・キリストの誕生」
2015年12月22日 20:43
クリスマス礼拝
聖書 ルカによる福音書1章39-56節
<中心聖句>
47節
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」
今では、世界中でクリスマスは祝われておりますが、200年前クリスマスを前もって知っていた人間は、一人もありませんでした。これは、神がご計画になり、神が実行されたものです。しかし、こんな方法で神の御業が起こるということは、誰も予想しませんでした。このクリスマスの物語が起こったのは、ユダヤという強大なローマ帝国に征服され属国とされていたユダヤの国の、そのまた片田舎でした。
ナザレの町のマリアという娘が、自分の体の異常に気が付きました。どうしてそうなったのか、自分では全く分からないことでした。マリアは悩みました。その悩みは、どんなに深刻であったかと思います。この深刻なマリアの思いさえ消し飛んでしまうような大きな救いが起こるとは、考えることもできなかったのです。人間の予想もしないこと、そして人間にはとても出来ないことを、神はしてくださるのです。
34節に「どうして、そんな事がありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と記しています。あり得ないことというのは、人間の目から見ると、人間の力ではどうにもならないことです。私たちの中にも、どうにもならない問題で悩む人がいます。人間と人間とのことなのに、人間がけではどうにもならない、どうしようもないことがあります。神から離れてしまっているからです。
マリヤはすべてを神にゆだねました。
46節からはマリヤの賛歌が記されています。
47節」「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」 48節「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」と。へりくだった謙虚な女を、まことに無に等しい、神に顧みられる値打ちのないと思われる女に心をかけてくださったのです。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者というでしょう」マリヤの心は、明らかに不安に満ちたものではなかったのです。そして47節にあるように「救い主である神を喜びます」と神を称えています。
49~50節「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐みは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」この「神の憐み」とは「誠実」または「真実」と言ってもいいと思います。また、この誠実、真実は「とこしえに憐れむと約束なさったとおり」という言葉でもあります。
51~53節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
身分の低い者を高く上げ」とは、へりくだった者を高めるというのは、「神以外に頼るべきものはないのだとわきまえている者」のことです。そして、明らかにここに神を信じる者の勝利が歌われています。ですから、このマリアの賛歌で歌われている「わたし」は皆、私ども自身の「わたし」に置き換えることができるのです。
日本人にとってキリスト教が外国の宗教だからとかどうかよりも、人間が神から離れてしまい人間として正しく生きることが出来なくなった時に、神と人間の問題を正しく解決してくださる神の御子の誕生があったということです。私たちは、この「イエス・キリストの誕生」を心より祝い、キリストに応えて生きたいものです。