2015.12.27 宣教「愛のうちに歩む」
2015年12月27日 18:57
聖書 ルカによる福音書19章1~10節
<中心聖句>
10節
「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのでる。」
年末になりますと、いろいろなところで今年の10大ニュースということが話題になります。しかし、どうも悲しいニュースが多く、素晴らしいニュースというのはあまり多くありません。そのいう様々な出来度との中に、「救いが起こった」ということが混じるのです。
このザアカイは、のちにキリスト者となり、教会に仕える者となり、カイザリア地方の教会の監督になったと言われています。ザアカイ自身が、自分の入信の物語を、いや、自分が信仰に入ったというよりも、自分の生活の中に、いかにしてイエス・キリストという方が侵入してこられたかという話を、飽きずに語ったであろうと思います。
主イエスは、「あなたの家に泊まることにしている」と言われました。ザアカイの都合も何もない。「わたしを泊めなさい」という押しつけがましい言葉です。人々は、ザアカイの家に入るイエスのお姿を見ながら、「あの人は、罪人の家に入って、客となった」と言いました。これは、事実を語っています。罪人の中に入ったという、この、つぶやきは、正しいのです。しかし、正しくないのは、自分達もその罪人の一人であって、この方をお客として迎えなければ、自分達も救われないのだということに、人々は気づいていないことです。
自分の罪に敏感な心を持つことが、信仰者に与えられている恵みです。自分の罪に気づくということは、悲しいことではありません。ザアカイにとって、とても嬉しいことであったのです。それは自分の本当の値打ちを知ったという喜びであったのです。ルカは、このザアカイが、喜びに溢れて主の前に立っている姿を私共に語っているのです。
10節に「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と言われました。
失われた? 誰から? それは、神から失われていたのです。隣人から失われていたのです。そして、自分で自分を見失っていたのです。
しかし、今は気がつきました。むさぼるところに、自分の幸せはなかったことに。与えられたものを喜んで受け、与えられたものを喜んで少しでも分け合って生きるところに本当の自分があることに。
主イエスは「今日、救いがこの家に来た」とお語りになったのです。
ここで「この人に来た」と語っておられない。ザアカイに妻がいたのか、子どもがいたのか、それはわかりません。けれども、ルカは、その家の一人が神のふところに帰ることを知ったとき、ザアカイの家全体に救いの歴史が始まる。神の祝福が始まる。と、そのように語っているのです。あなたを通じてあなたの家がまるごと祝福の中に置かれる。そのことを信じて、その祝福の担い手として生きていきなさい。と言ってくださるのです。