2015.1.25 「聖餐にあずかる者」

2015年01月26日 11:32

聖書 ルカによる福音書14章15~24節

<礼拝の中心聖句> (14:23)

主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』   

 

 ここである人が宴会をしようと人々を招待しました。そしていよいよ準備が出来たので一件一件丁寧にお迎えに行くわけです。

ところが、ある人々が皆断ってしまう。「畑を買ったので、見にいけねばなりません。」「牛を2頭ずつ5組買ったので、それを調べに行くところです。」また「わたしは妻を迎えたばかりなので行くことができません。」というのです。どれもこれも考えてみると、畑を買ったからと言って畑が動いてなくなるものでもない。牛を買ったからと言って牛がすぐに死んでしまうものでもない。妻を迎えたからと言って、これから何年も結婚生活が続くわけですから、その夫婦生活をしっかりやっていけば良いのです。何も約束された日を無駄にしてしまう必要はないはずです。

 この招待されるという人たちというのは、どちらかというとこの世のエリートです。

大宴会ということですから、お祝い金も必要となるでしょうし、貧しい人たちはそういうところには招待されません。また、この大宴会を主催するのは、よほどのお金持ち、または力のある人に違いないと思われます。このお金持ちは、お金持ちや地位の高い人を招待し「こういう人が私の大宴会に来てくれた」と誇りたいのではないでしょうか。

 しかし、この主人は、「もういい。そういう人は。」「そういう人はいいから、町に行っていわゆる貧しい人、不自由な生活をしている人たちを連れて来なさい。広場や狭い路地に行って、誰でもいいから、よりごのみしないで、皆呼んできなさい。」と言いました。

 ここで、神の招きという大宴会の主催者は、神様のことを言っています。神から招かれるということは、どんなに惠であるかという事です。

招待された人というのは、必ずしも金持ちや町の有力者でなない。私どもが教会生活が出来るというのは、やはり自分の罪ということを考えたとき、それは驚くべき神の恵みに他ならないのです。

 神の聖餐にあずかる者というのは、神様からお招きを受けないであろうと思われる人を、神様は選んでくださる。

私どもが何か偉いとか、立派だとか、お金持ちだからということではない。神様が選ぼうとする方、様々な人の中から無理やりに引っ張ってこられた人たちそして信仰を持つようになったというあなたこそが、この選びに応えた器だとキリストはおっしゃているのです。

感謝です。

                        

                          

 

 

 

 

 

 

サイト内検索

お問い合わせ先

水元教会 東京都
葛飾区水元2-5-9
125-0032
03-3607-0910