2015.2.15 宣教「天地の造り主を信ず」

2015年02月16日 10:11

聖書  創世記1章1~19節

<中心聖句>

1節 「初めに、神は天地を創造された。」

 

キリスト教をどのように考えるかと言う点において、この「天地創造」の記事があることは、広く知られています。

現代人の多くは、これを神話に過ぎないと受け取っています。

3~5節に、6日にわたる神の天地創造の記事が続きます。

私たちが使徒信条で「天地の造り主を信ず」と告白しているときに、何よりも注意しなければならないことは、天地創造のプロセスを逐語的に信じると言っているのではありません。時間というのは、神の領域です。

たとえば、一日といっても、それは私どもが生活している一日の意味ではなく「神のもとでは、一日は千日のようで、千日は一日のようです」と言われるように、人間の一日とは違った次元で語られているということです。

 

信仰と科学の関係において、信仰は人格の世界に関わることです。

天地創造の信仰というのは、人間を含めてすべてのものを存在させ、これを支えている神の存在であります。

新約聖書のヨハネ黙示録21章6節、神は「アルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」ことを信じる、ということです。

 

ダーウインの進化論というものを、進化の過程をキリスト教は必ずしも否定しているわけではありません。

けれども、進化の過程を説明されても、そのものの初め、そのもの自体を何が造ったのかということを

今日の科学が、結論を出していけるのか、というと出来ないのであります。

「天地の造り主を信じる」ということは、私どもの神は世界の造り主であり、そして、世界は宇宙は神によって造られたのだという事です。

 

この世界を造った神の目的は、私たち人間を用いて、その目的を達成する事にあると言えます。

神が世界を、生物を創造しただけの働きではなく、神は人間の歴史の中で働く、生きた神なのです。

長い歴史の中で、神の愛、キリストの愛のわざが、人間を通してあらわされていくのです。

 

「天地の造り主」を信じ、人間存在の根底を問う神の言葉を学び、祈りを持って主イエス・キリストを見上げていくならば、今、私たちはなお、いきいきとして生きることが出来るのではないでしょうか。

 

                     

 

 

 

 

 

 

サイト内検索

お問い合わせ先

水元教会 東京都
葛飾区水元2-5-9
125-0032
03-3607-0910