2015.2.22 宣教「なぜ、わたしだけ苦しむのか」

2015年02月22日 19:30

聖書 ヨブ記1章1~11節

<中心聖句>

1章1節 「無垢で正しい人で、神を畏れ、悪を避けていた。」

 
  先週の水曜日(灰の水曜日)から レント(受難節)に入りました。
 このレント(受難節)の中で私たちは、キリストの受難に心をとめて生活したいと思います。

 ヨブ記は、「昔、ヨブという義人がいた」というところから始まって、なぜこの義人が苦しみを受けるのか、
なぜ苦難の体験を味わわなければならなかったかということを、非常に素朴に表現しています。
また、不思議なことに天上の場面がありまして、神とサタンが対話する。という中でヨブの苦難が決まって
いくという筋書きです。
 
 ヨブ記には二面性があります。
それは、イスラエルから言えば、異邦人のような立場で紹介が始まっていることです。
ヨブはアブラハムのような正統イスラエル先祖にあたるような人ではありません。
しかし、ヨブは神から「神の僕」と呼ばれる人でありました。
この二面性が、ヨブ記のポイントであると思います。
 
 ヨブ記の主題は、「人生における苦難の意義」であります。
苦しみはどこから来るか、義人が苦しむのはなぜか、という事です。
ヨブの苦難は理由無き苦難です。
 
人生の中で、自分の悲劇や他人の悲劇は誰のせいで起きたのかと考える。
自分のせいか、両親のせいか・・・・
責任がありそうな人を突き止めると、不思議に満足します。
それである種の説明はつくし、何かがはっきりするからです。
 
 しかし、イエスは自分の問題や他人の問題を、誰かを非難して解決することは許されません。
イエスが私たちに提案されることは、問題の中で神の光を見つけることです。
 
 誰でも悲劇はやってきます。愛する者との別れ、死、病気、私たちはめったにそれを克服できません。
それなら誰かを非難して生きるか。それとも、苦難を神が働かれる機会と捉えて生きるか。
 
 私たちは、苦難を神が働かれる機会として、悲しみの中でも、信仰に生きようとする心のあり方ゆえに、
自分が崩れることなく生き抜いていきたいと思うのであります。
                

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