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2015.3.29 宣教「この人を見よ」
2015年03月30日 08:11
聖書 ルカによる福音書23章20-25節
<中心聖句>
15節 「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」
イエスの生涯の中での最後の一週間は受難週として、私たちはキリストの苦難を想い返す
大切な時をとして過ごします。特に木曜日の夜に行われたイエスの審判から、十字架の決定
に至るまでの経過の記述は、それぞれの福音書は、実に詳細に記しています。
イエスの最終的審判者であった総督ピラトという人物は、自分がしなければならないことを
知りながら、いざという時にはそうすることの出来ない、いえあゆる現代人の代表的な人物で
はないでしょうか。
13節以下を見ますと、ピラトは幾度も繰り返して、キリストの無罪を主張し、群衆の訴えが誤
りであることを指摘しています。「この男」は群衆を惑わしたことも無い。「この男」はなんら死に
あたるようなこともしていない。と言い切っています。ピラトは何とかしてイエスを助けようと努力
したかのように見えます。
しかし、ピラトは少なくとも2つの罪を犯しています。
第1の点は、ピラトは人々に「この人を見よ」とすすまながら、自分は本当にキリストを見てい
なかったという点です。ルカ23章3節に「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問したとありますが、
この時ピラトは、イエスが彼にとってなんであるかを知る良い機会が与えられていたのです。
彼の地位も、名声も、彼の権力も、はるかに及ばないものを、イエス・キリストは持っておられた
のです。そのことを知ったなら、彼はそこで、イエスの前にひれ伏して、イエスと共に主体的に生
きる道を見いだすことが出来たのではないでしょうか。
第2の点は、ピラトは余りに政治的な妥協的な生き方をしているという点です。彼は当時の総督
でありました。自らの権威を行使すれば、イエスを赦すことは不可能ではなかった。罰すべき理由
を見いだすことの出来なかった彼は、最後の責任をヘロデに委ねようとしただけではなく、群衆の
決定にまかせようとしたのです。
わたしたちのうちに、人々には「イエスを見よ。」とすすめながら、自分自身ほんとうにイエスをみ
ているだろうか。あいまいな妥協的な生活ぶりを繰り返してはいないだろうか。
お祈りをいたしましょう。