2015.5.10 宣教「炎の母」
2015年05月11日 08:48
聖書 マルコによる福音書7章24-30節
<中心聖句>
7章28節
「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、
子どものパン屑はいただきます。」
五月の第二日曜は母の日です。
1908年アメリカのウエストバージニア州のある教会で、教会学校の教師をしていた母親が
亡くなりました。
教え子たちが、白いカーネーションの花を持ち寄って母を中心にした記念集会を持ちました。
そこに集まった人々は天に召された母を思い起こすと同時に、自分たちの母のことを考え合っ
たのです。それが全米的な行事となって行ったそうです。
聖書の中には、その子のために強く生きる母の姿を記してしるところがいくつかあります。
マルコによる福音書7章24-30節では、
けがれた霊に取りつかれた幼い娘を持つ母親が、娘の癒しのために身を投げ出してひれ伏して
懇願した。と記されています。
しかし、イエスの答えは冷たいです。
27節「まず、子どもたちに十分食べさせなくてはならない。こどもたちのパンを取って子犬
にやってはいけない。」
ここで子どもたちと言われたのは、同胞のイスラエルの民のことであり、子犬と言われたのは
異邦人のとこです。
なんという驚くべき軽蔑に満ちた言葉でしょうか。
これが愛を解説き、赦しを語るキリストの言葉でしょうか。
この言葉によって、この女性はキリストに失望しても不思議ではありません。
しかし、この母親は、キリストの心を疑うことをしなかったのです。
語られる言葉の背後にあるキリストの光を見失うことはなかったのです。
この母親は、わが子のために、キリストにへりくだって、訴えます。
28節「しかし、主よ、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます。」
このように、異邦人と呼ばれていた「フィニキアの女」は、さわやかにキリストの言葉を
全面的に 受容し、そして、なりふりかまわずキリストに求めていきました。
「この母」に、29節
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
もうその言葉で十分である。と主は言われました。
イスラエルのどの母にも与えられなかった恵みの言葉です。