2015.6.21 宣教「不信仰な時代」
2015年06月22日 16:57
聖書 マルコによる福音書9章14~29節
<中心聖句>
9章24節
その子の父親はすぐに叫んだ。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
病を持った子どもを抱えた父親が、藁にもすがる思いでイエスを訪ねてきました。
しかし、その時、そこにイエスはおられなかった。
弟子たちが、その子の病を癒そうと試みたが癒されなかった。この様子に律法学者が
どこからともなく現れて、イエスの名の無力さを取り立てて議論をしていたのです。
そこにイエスが来られた。
群衆の中のある者が事の次第を説明した。
すると、イエスは「なんと信仰のない時代なのか。」と言われ、そして「その子
をわたしのところに連れて来なさい。」と言われたのです。
父親はイエスに、今までの子どもの状況を説明して言った。
そして「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」と言った。
ここで父親は「この子を助けてください」とは言っていない。「わたしどもを憐れ
んでお助けください」と言っている。父は、子と一つになって「わたしども」と叫
んでいます。ずっと、父も子も苦しんできたことがわかります。
祈り求めてきたが、迷い、疑い、不信に陥って絶望を味わってきたのです。
ですから、この父親がイエスに向かって「もしおできになるなら」と言ったことも
仕方のないことであったと思います。
しかし、23節で、イエスは鋭く「できれば」と言うのかと迫ります。
ここで、イエスは断固として「信じるものには何でも出来る」と言われるのです。
子を思う父親に向かって、ただその信仰だけを問題にされているのです。
徹底的に、ただ純粋に信仰だけを問題にされる。
ここに私たちの信仰が問われます。
父親は「信じます。だから助けてください。」とは言ってません。
「信じます。不信仰なわたしをお助けください。」と言っている。
自分の中のどこを見ても不信仰しか見つからない。この不信仰な私を助けてください
と言って、自分の一切を主イエス・キリストに預けてしまう。委ね切ってしまう。
これが、この父親の、そして私たちの信仰の姿なのです。