2015.7.12 宣教「一粒の麦」
2015年07月12日 20:34
聖書 ヨハネによる福音書12章20-26節
<中心聖句>
12章24節
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
一粒の麦・主イエス・キリストが死んでくださったから、私どもは信仰を
言い表すことができたのです。
イエスは、他の福音書の中でもよく麦について語っておられます。
ナザレの村の周りには麦畑があって、イエスは麦畑に親しんでおられたのか
もしれません。
麦が耕された土の中に落ちていく。姿を隠してしまう。その種は見えなく
なって、死んだとしか思えない。そして何もなくなってしまったかの思われ
るところに、そこに種のあるところから緑の芽が吹き出し、そこに捨てられ
たはずの一粒の麦が、この姿を変えて実っていく。
もし、この一粒の麦が、この姿を維持して変えられるのは嫌だ。と頑固に
言い張ったならば、この実りはありません。
イエスは、この一粒の麦の実りが、自然の移り変わりの一コマでしかない
かもしれないが、そこに神の不思議な愛のみわざが映し出されていることを
見ておられたのではないでしょうか。
やがて、明確に神のみこころを知るようになった時、自分が、まさにその
一粒の麦になることこそ神のみこころであると知るようになった。イエスは
まさしく一粒の麦になられたのです。
私たちの信仰がいい加減になった時には、実はイエスの死を自分にとって
無意味なものとしているかもしれません。主イエスの死を無視しているのか
もしれません。
一粒の麦から生まれた実りである私たちであることを、忘れないで生きて
いきたいものであります。