2015.8.23 宣教「復活の信仰」
2015年08月24日 09:04
いわば、使徒信条の中に私ども一人一人が自分の名前を書き込むようなものなのです。
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12~28節
<中心聖句>
15章7節
「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。」
今日は、いままで何回か学んできています使徒信条から、
「三日目に死人のうちよりよみがえり」というところを学んでいきたいと思います。
実は、イエスの復活が信じられなかったのは、現代人だけではなくて、古代ユダヤの
人々にとっても同様でした。マルコ福音書16章には、イエスの弟子たちさえ、マグダラ
のマリヤからイエスの復活の話を聞いたとき、これを信じなかった。と書かれています。
また、現代に生きる私たちが信じがたい理由の一つに、復活についての聖書の記事が
マタイとマルコとルカでは微妙な違いがあることです。たとえば、マタイとマルコには、
復活のキリストがガリラヤに行かれるという箇所がありますが、ルカにはありません。
また、復活について、聖書に書かれた最初の具体的な記録は、このコリント第一の15章
(これは紀元53年頃に書かれたものとされています)ですが、15章3~8節には、
最初にペテロに現れ、12人の弟子たちに現れ、500人以上もの兄弟たちに同時に現れ
た。と記されています。福音書の記事と一致しません。
そこで、イエスの復活自体が、失望した弟子たちの中に生み出された幻想であり、作
り話である。という主張も生まれてきました。
ところが、イエスが、いつ、どこに、どのように復活の姿を現したかの詳細はともかく、
イエスの復活は、弟子たちの信仰、弟子たちの生活の姿勢を全く変えていきました。
キリストを知らないと言ったペテロが、キリストを迫害していたパウロが、初代教会の
クリスチャンたちが、迫害にもかかわらず、まるで熱いお湯が沸騰するかのように各地で
伝道を始めたのです。
それは、復活のキリストの出会いという出来事があったからなのです。
初代教会というのは、キリストの復活と聖霊がメッセージの中心になります。
私たちが、毎週、使徒信条で告白しているのは、昔、復活のキリストを信じた人がいる
から、その通りに言っているのではないのです。復活の主イエス・キリストが今もなお私
たちのところにおいでになるという信仰です。
いわば、使徒信条の中に私ども一人一人が自分の名前を書き込むようなものなのです。
「三日目に死人のうちよりよみがえり、わたし(自分の名前を入れて)に現れてくださった。」
信仰を言い表すとは、そういうことなのです。