2015.8.9 宣教「神への帰還」
2015年08月09日 19:04
聖書 ルカによる福音書15章11~32節
<中心聖句>
15章20節
「そして、彼はそこをたち、父親のものに行った。ところが、
まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、
憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」
これは、「放蕩息子」の話として、聖書の中でも大変有名な物語です。
この物語の中に、第一に人間の不安という問題を見ることが出来ます。
今日の人は、遊ぶことに事欠かないし、一面においては経済的には富み、あらゆる文
化を楽しむことが出来る世代に生きながら、しかし、心の中には奥深い不安があるの
ではないでしょうか。
この不安の原因は「人間の罪」であると思います。
では「罪」とは何でしょうか。それは「的を外す」ということです。
父の家を出た息子は、その「目標」を失っています。父なる神のもとにあることが、
私達の実存の根源であるのに、彼はそこを離れてそれに逆らっていったのです。
第二の問題に、死があります。
若い時代には死の現実感はありません。しかし、人間は誰でも、いつかは「死という
終着駅」におりたってゆかねばなりません。17節に「・・・わたしはここで飢え死に
しそうだ」とありますが「ここで」とは何処でしょうか。それは神から離れたところ
父なる神から離れたところ、父なる神の恵みにそむいているところです。
さて、25~30節には、こんどは兄のことが記されています。
兄は「何年も仕えて」「言いつけに背いたこともない」のに・・・とそういう不公平
に我慢が出来ないのです。
人間の理屈から言うと、兄の冷静な論理と計算からすれば、この父親の喜び、行動は
理解できないかもしれません。
この話の父はとは神であり、息子は全世界の人間のことです。
弟は人生の苦悩の中で、神なきところに生き、そこで人間の悲惨にふれて立ち帰えり
父なる神のもとに帰っていったのです。
しかし、この弟がその後どうなったかは聖書には記されていません。
この弟の悔い改めは相当いい加減のようであったかもしれません。
出来の悪い悔改めであったかも、まだほんの表面的な悔い改めしかできなかったかも
しれません。 父は、それを承知で抱きとめてくださるのです。
神は、この弟を「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つけられた」と
喜び「お前の兄弟ではないか」「共に喜び、祝おうでなないか」と兄にいわれるのです。
私共に価値があるゆえに、神が私共を愛して下さるのではなく、
神が私共を愛してくださるから、私共に価値が与えられるのです。