2015.9.6 宣教「終末の時」

2015年09月06日 19:27

聖書 マタイによる福音書24章15~31節

<中心聖句>
 24章29節
 「その苦難の日々、たちまち太陽は暗くなり、
       月は光を放たず、星は空から落ち
               天体は揺り動かされる。」
 
 終末の時とは、聖書はどのように言っているのでしょうか。
 
 15節に記されているように、旧約聖書のダニエル書には、世の終わりに
登場してくる神からの救いをもたらす者を「人の子」と呼んでいます。
 「そのとき、人の子のしるしが天に現れる」という言葉は、文字通り天を
仰いでいると、人の子のしるしがある。天に十字架が現れると言うのです。
その十字架のしるしを見た時に、「地上のすべての民族は悲しむ」と記され
ています。中心聖句の29節の言葉は、この世界全体が、しかし地球だけでは
なく、宇宙全体がるれ動く。というのです。
 これは、どういうことでしょうか。
 その意味は、わたしたちがイエスを十字架につけたということが、どんな
恐るべき悲しいことであったかということを、改めて思いさらされ、悲しく
なるのだというのです。
 
 私たちは、主イエスの十字架の意味は分かる。しかし、主イエスが「世の
終わり」についてお語りになっていること、主イエスが再臨されるというこ
とになると、どうもよくわからない。
 私たちは信仰をもっているつもりでも、主イエスが約束しておられる「主
の再臨」に望みをおいて生きるということが、どうも理解できなくなっている
のではないかと問われる時があります。
 
 使徒パウロはコリントの信徒の手紙13章12節で「わたしたちは、今は、鏡に
映ったものを見ている。だがそのときには顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知ることになる」
と記しています。
 現代の私たちが、終末の時をイメージしてもピンとこないかもしれません。
それは、たとえば幼い子供に「幸せとは神との出会いである」とか、「信仰と
希望と愛・・・その中で最も大いなるものは愛である」とか説明しても、理解
されないでしょう。しかし、その子共が30年後、40年後と、人生を歩む中で、
苦しみ、悲しみに出会い、人を愛する経験を経ていくことで分かってくるので
はないでしょうか。
 
 人間が老いることは、死が近づいていることを自ら意識していくことです。
死への備えの道とは何でしょうか。それは言うまでもなく、生きることにも、
死ぬことにも、キリストのゆえに自由なものとなることではないでしょうか。
 
 私たちは、今生かされていくこの一日一日を、いつ終末の日に立たされても
悔いのない思いでいきたいものです。
 
                  
 

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